これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年10月28日「肉に頼らない生き方」(フィリピの信徒への手紙3章1~3節)

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 前回までに、テモテとエパフロディトを送る計画が述べられていました。今日から、「犬ども」に気をつける、警戒すべきことが述べられます。その最初にパウロが述べるのは、やはり喜びの勧めです。1節前半。この箇所は、前回の締めくくりの言葉であって、前回に繋げて読むべきであるという方々もおられます。1節後半の「同じこと」も喜びの勧めではなくて、警戒のことで、パウロのこの部分の手紙よりも前にも手紙が書かれていて、警戒のことがまた繰り返されていると読みます。どちらの読み方も可能でしょう。ただここで、2節。「あの犬ども、よこしまな働き手、切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」が誰なのか考えておきます。1章で語られていた、「ねたみと争いの念にかられて(15節)」の人々、「不純な動機からキリストを告げ知らせている(17節)」人々のことではないでしょう。むしろ、キリストの福音だけでは不十分で、割礼を受けてユダヤ人としても模範的でなければならないとする、ユダヤ人キリスト者のことです。パウロがペトロをアンティオキアで非難した(ガラテヤ2章11~14節)時のことが思い起こされます。問題の焦点は、福音のみ、信仰のみ、なのか、それとも他に何か救いに必要なものがあると思うのか、という点です。3節前半。肉体の割礼(切り傷)があるかどうかが問題ではなくて、もはや主イエスがおられる以上、この方において救いはあるのだという信仰を生きるかどうかが肝心です。そこに真の割礼があります。ユダヤ人はユダヤ人のままで、異邦人は異邦人のままで救われる、大切なのはキリストの十字架と復活だけなのだということです(尤もパウロはとても柔軟で、テモテを伝道に連れて行く時には、割礼を受けさせています、使徒言行録16章)。3節後半。この三つのことは、一つのことの三つの側面と言えるでしょう。私達も「肉」に頼らない生き方をしましょう。