これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年11月25日「目標を目指して」(フィリピの信徒への手紙3章12~16節)

 前回は同じ聖書箇所で、12節の最後、「キリスト・イエスに捕らえられて」に集中しました。私達が、「既に」と「未だ」の間にあって生きることができるのは、「キリストに捕らえられ」たという「既に」があるからです。だから13・14節。「未だ」の目標を目指してひたすら走ります。ただパウロは自分の考えを押しつけようとはしません。15節前半なのだけれども、15節後半です。自分とは異なる別の考えがあったとしても、神様ご自身が明らかにしてくださるのだとパウロは、神に信頼します。ただパウロは、「後ろのものを忘れ(13節)」と述べました。これは、過去のことはどうでも良い、全て忘れてしまって、ということではありません。だから、16節。どういう歩みをしてきて、今自分の信仰がどうであるのか、その到達したところに基づいて、私達は進む、そこにしっかりと立つべきです。では、「後ろのものを忘れ」とは、何を忘れることでしょうか。それは、例えばパウロの場合には二つのことが考えられます。まず第一にキリスト者・教会を迫害していたような、ユダヤ人としては模範的な?歩みをしていた頃のことです。パウロがもはや、塵あくた、損失とみなしているものに、もはや固執しないことです。更にキリスト者にされてから、今日に至るまでの自分のしてきた伝道活動のことです。事実パウロは、もはや自分が生きるのではない、自分の内にキリストが生きるのだと述べます。また、自分がなしたのではない、聖霊によって神がしてくださったのだ、と語ります。これは私達がキリスト者として、自分自身の体験・実感としてよく分かることではないでしょうか。私達は、パウロの敵対者たちが主張するような「完全」とはほど遠い存在です。それどころか、未だに自分の過去の様々なことを「後ろのものを忘れ」きれない私達です。しかし前のものに全身を向けつつ、目標を目指して生きることは、誰にでもいつからでもできるのではないでしょうか。