これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年3月10日「でたらめな裁判」(マルコによる福音書14章53~65節)

 先週フィリピの信徒への手紙を終わりました。今日からマルコに戻ります。昨年の6月、主イエスの逮捕で中断していました。逮捕は大きな区切りではありますが、まだ福音書は終わっていません。むしろこれから、大切な受難物語です。今回、受難節(レント)に逮捕後の出来事を丁寧にみていきましょう。53節は、逮捕直後のこと、54節は次回の記事とでサンドイッチ構造になっています。55節で、この裁判が、最初から死刑を目指した異常なものであったことが分かります。裁判では、二人または三人が別々に証言してその内容が一致している(矛盾がない)ときに、はじめて証言の有効性が立証されたことになる、という決まりがありました。きちんと口裏を合わせていればうまくいくという人もいます。が、今回はユダの裏切りによって、突然の逮捕、そしてその日の内に裁判なのですから、そんな余裕はなかったのでしょう。最初から死刑にするという目的があることも異常ならば、夜裁判を行ったことも、その日の内に判決を出していることもでたらめです。不利な偽証の食い違いの後には、神殿の話になります。57~59節。証言自体が、主イエスの言葉とは異なりますし、この事柄に関しても証言は食い違っています。ついに大祭司自身が立ち上がります。60節61節前半。主イエスはもう死を覚悟して沈黙しておられます。宗教権力者たちとの見事な対照があります。しかし大祭司の次の問いには(マルコでは)答えます。61節後半62節。今までは、主イエスがキリスト・メシアであることを見抜いた者たち(弟子たちを代表するペトロや悪霊など)は、主イエスから沈黙を命じられていました。しかし今や時は満ちて、主イエスご自身が宣言なさいます。その結果、63・64節。でたらめな裁判にでたらめな判決です。日本にも多くの冤罪事件があって人ごとではありませんが、ここまでひどくはないでしょう。主イエスが殺されるまでの一連の出来事は、その最初からすべて、人間の罪によるでたらめなものであり、それを主イエスは静かに耐えて、私たち人間を救おうとする神の意志に従いました。