これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年4月7日「ユダヤ人の王」(マルコによる福音書15章21~32節)

 

 主イエスは前回の最後の箇所(20節)で、十字架につけられるために外へ引き出されました。そして今日の箇所でまず出てくるのは、シモンです。21節。「田舎」は今度の翻訳では、「畑」になりました。シモンは何か目的をもってここに居合わせたのではありません。たまたま通り掛かります。このシモンが十字架の横木を(既に鞭打たれ弱り果てておられた主イエスに代わって)担がされます。元のギリシャ語には、幾つもの「担ぐ・担う」にあたる言葉があります。しかしここではあまり使われない言葉があえて使われています。それは、8章の「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(34節)」に合わせたのでしょう。シモンは自分から望んで、主イエスの十字架を負ったのではありません。当時絶対的な権力を持つローマの官憲に逆らえないで、不平不満だらけで担いだのかもしれません。しかし彼はまさに主イエスの十字架を担ぐ者とされました。二人の息子の名前が何の説明もなく出てきますから、初期のキリスト教会で、彼の息子たちは(誰でも名前を知っているほどに)活躍したのでしょう。私たちが十字架を担う時にも、これと似たことがあるのではないでしょうか。22~24節。この場所には幾つかの候補があります。当時は、十字架の縦木が普段からあったそうです。主イエスは、前もって仰った通りに(14章25節)、ぶどう酒を受けません。更に服を分け合うのは、旧約聖書に預言されていることです。
 いよいよ、午前9時、主イエスは十字架につけられます。25~27節。ユダヤ人の王。ヨハネによる福音書には、この罪状書きを巡ってのやりとりが記されています。マルコでは、ただひたすら、この主イエスをののしる人々が描かれています。29~32節。この人々のののしりの中でこそ、全ての人を救う神の出来事が進んでいきます。