これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年5月5日「かたくなな心と宣教命令」(マルコによる福音書16章14~18節)

 8節までで本来のマルコ福音書は、終わっています。前回の箇所では二つの「信じなかった」がありました。復活の主に出会った人々の証言を信じない弟子たちの姿です。それだから14節。不信仰とかたくなな心をとがめられます。そしてマルコ福音書では、この叱責にすぐに続いて宣教命令です。15~18節。マタイ福音書の最後の宣教命令とは少し異なりますが、おおむね同じです。大きく異なるのは、マタイにある「世の終わりまで…共にいる」という約束がないことです。これは、マタイ福音書全体のテーマが、インマヌエルであることから説明できます。マルコの特徴は、主イエスの叱責に直ちに続いて、宣教命令があることです。弟子たちは、復活の主に出会って悔い改めたとか反省したとか、そういう記述が一切なくて、いきなり、宣教命令があることです。つまりマルコ福音書では、私たち人間の側の意欲や考えではなくて、ただ主イエスからの命令です。
 このことは何を意味するのでしょうか。三つのことを申し上げましょう。まず第一に、主イエスは信仰や態度がとてもしっかりしている人々に宣教を委ねたのではなくて、私たちのような信仰の小さな者に委ねて下さっているということです、「信じなかった」ような。自分の信仰の小ささを奉仕や宣教を断る言い訳にするわけにはいきません。第二に、私たちが信仰を育てられるのは、私たちの信仰の小ささにも関わらず委ねて下さる主イエスに信頼して、実際に宣教の業をなしていくときなのではないでしょうか。そして第三に、そのような弟子たち(私たち)の宣教によって、福音は前進していき、二千年経った今、キリストを信じる者が増え続けてきたことです。なお最後にこのいわゆる「大宣教命令」が注目されるようになったのは、(中世の時代ではなくて)近代になるのと共にでありました。新しい世界がみえてきたときに、昔の宣教命令が再び注目されたのです。