これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年6月30日「荒れ野の誘惑」(マタイによる福音書4章1~11節)

1節。ここに荒れ野の誘惑の意味が示されます。聖霊に導かれて。悪魔から誘惑を受けるために。ヘブライ人への手紙4章15節。その誘惑は三つです。順にみていきましょう。2~4節。霊肉二元論に陥って、「肉的なものはどうでもよい、霊的ものが大切だ」と主張しているのではありません。パンもまた必要です(主の祈りで日々祈っておりますように)。しかし、神の国から出る一つ一つの言葉によって生きることが見失われる時に、私たちは私たちの命にとって最も大切なものを失います。主イエスがここで戦われたのは、神を便利な神にしてしまう誘惑です。第二の誘惑、5~7節。「神を試みる」誘惑との戦いです。当時の社会で宗教的指導者であった律法学者とファリサイ派の人々がしるしを求める記事があります(12章38節以下)。神を試みることは、私たちが神になって、神でさえも裁く姿勢です。試みる心からは、信仰も愛も生じることはできません。第三の誘惑、8~10節。全てが手に入ったとしても、自分の命を失うならば、何の意味もありません。はたから見れば明らかなことです。しかし私たちは、何と愚かなことに、神の栄光ではなくてこの世の栄光に惑わされることでしょう。
 三つの誘惑、便利な神を求める誘惑、神を試みる誘惑、この世の栄光を求めて悪魔にひれ伏す誘惑、私たちは、弱く罪深い人間であって、これらの誘惑にいつも打ち勝つことなど、到底できません。だからこそ、こんな私たちのために主イエスは誘惑に打ち勝ち、11節。主イエスが十字架に死ななければならないほどに強く深い私たちの罪が、この出来事においても、はっきりと示されています。だからこそ、私たちの信仰によって救いに入るのではなくて、ただ主イエスの信仰、神の恵みによって救いに入るのです。