これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年9月8日「健やかに生きる」(マタイによる福音書5章27~32節)

 前回は、最初の反対命題でした。今日は二つ目と三つです。前回同様、かなり厳しいことが言われます。一つ目の「姦淫」は、実際にしなくても、みだらな思いで見る者は犯したことになるといいます。27・28節。更につまずきをもたらす、目や手を捨てることが語られます。29・30節。二つ目の離縁についても同様です。31・32節。男尊女卑の社会で、男たちは、妻が気に入らなくなると捨てました。それに対して、福祉的な規定として、単に捨てるのではなくて、きちんと離縁状を出して、女性を自由にすることが求められました。しかしこれも、主イエスは、(別の箇所で)あなた方があまりにも頑なだからそう規定されたのだと言います。離婚について、カトリックでは認められないが、プロテスタントでは自由に離婚できるという理解もあります。しかし、本来キリスト教では離婚はありえないことです。ただ、カトリックが結婚も七つの秘跡(サクラメント)に数えているのに対して、私たちプロテスタントでは結婚は秘跡ではない(洗礼と聖餐のみ)ので、神の前に懺悔しつつ離婚することはあります。なぜ姦淫がだめなのかといえば、女性をモノ扱いする社会において、財産の一つである女性(妻)を奪う、ヒトのものを盗むことになる、からでした。しかし、主イエスは、そうではなくて、神が定めた創造の秩序として、このことを捉えます(19章)。今日は説教題を「健やかに生きる」としました。どこでどのように私たちは健やかに生きることができるのでしょうか。外側にある、私たちを縛る掟としての律法ではなくて、私たち自身が自分の中に神の御心を自分の心とする思いで生きるところではないでしょうか。「殺すな」でも「姦淫するな」でも、全て神の掟は、私たちが自分を外側から縛るものとして捉える時には、窮屈な掟です。しかし、神の御心を思うとき、私たちは喜んで律法を内面化してもっと厳しく語る主イエスの言葉を喜んで受け止めることができます。ここでこそ、私たち人間は本来の神がお造りになった姿で神のものとして生きることができるのですから。