これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年9月15日「誓いを立てない」(マタイによる福音書5章33~37節)

 今回も反対命題です。今日は四つ目です。前回同様、「一切誓いを立ててはならない」と、かなり厳しいことが言われます。最初に今までの命題との二つの違いをみましょう。一つ目は、反対命題のもとになる、「あなたがたも聞いている」ことの中身が旧約聖書には、そのままの形ではないことです。33節。深い理由はなく、当時このように幾つかの戒めがまとめられていたのでしょう。いま一つは、現代においては、今までの反対命題と異なり、あまり切実さがないのではないでしょうか。私たちが誓いを立てるのは、裁判とか洗礼とか結婚とか特別な時であって、日常生活に誓いを立てるような場面はありません。だから、あまり身近ではないと感じるのも無理もないです。主イエスの当時は異なりました。34~36節。自分の語る言葉に重みと信頼をもたせるために、色々なものにかけて誓っていたそうです(誓いには、約束と確言の二つの意味があります)。天、地、エルサレムは、当時、主イエスと同じように否定的に捉える人々もいました。特徴は、36節です。私たち人間もまた、神によって作られた被造物なのだから、かけて誓うことはできません。だから、37節。私たちは誓うのではなくて、肯定か否定、「はい」か「いいえ」のどちらか、です。

 しかし現実には誓わなければならない場面もあります。どうしたらよいのでしょうか。一つは、一部の教派の方々のように、厳密にこの主イエスの言葉を捉えて、誓いを拒否するやり方です。これも立派に筋の通った仕方でしょう。しかし一般的には、誓わないときの私たちの言葉をいい加減なものにしないで、神の僕に相応しく一つひとつの言葉をきちんと語ることだと捉えます。誓いを立てる時と、日常会話の時で、言葉の重さを変えるのではなくて、いつでも主イエスの弟子たちとして、語ることです。そのとき、神は主イエスの十字架のゆえに私たちの罪をお赦しになって、本来軽い私たちの言葉を重く用いてくださいます。