これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年10月6日「真実の祈り」(マタイによる福音書6章5~8節)

 現在私達は山上の説教の中で、施し・祈り・断食についての教えを学んでいます。一つ目の施しと同様に、この二つ目の祈りにおいても、偽善者がするように、見せびらかさないことの大切さが語られています。5節。人々に見せる祈りは、既に人々から報いを受けてしまっている。だから神からの報いは期待できない。だから、6節。人々から隠れて(もしかすると自分さえ隠れて)祈る。そこに真実の祈りがある。
 今日は説教題を「真実の祈り」と致しました。真実の祈りとは何か。説教題を決めました私自身が困惑しています。ともすると私達は、偽善者のように、人々に見せる祈りは神の報いを受けることのない真実でない祈りだということは分かっても、それならば自分の密室の祈りは真実であるのかと問うならば、「確かにそうだ」と傲慢に言い切ることも、「いや全くそうなっていない」とうそぶくことも違うのではないでしょうか。7・8節。当時祈りもまた、施しや断食と並んで、大切な「善行」に数えられていました。だから、自分の功績として、祈りもまた数えてしまいます。しかし主イエスはそのような祈りは、必要ない、と仰います。くどくどと言葉数多い必要はない。なぜならば、父なる神は、私達が願うよりも前に、私達の必要なものをご存じなのだから。私達は、「祈らなければならない」という拘束からこの主の言葉によって自由にされるのです。それではもはや祈りは必要のない、どうでもよいものなのでしょうか。断じてそうではありません。だから主イエスは、この言葉に続いてすぐに(次回の箇所)主の祈りを教えてくださいます。祈りとは、私達の必要を神に知らせ伝えるもの(そこでは多くの場合、神を私達の召使にしてしまう)ではありません。そうではなくて、神が神であられ、私達の罪が確かに十字架において許されていること、神は私達の父として私達の必要を既に知っておられ、備えて下さることを知る、そのような神との生きた交わりです。私達は祈りという事柄に縛られるのではなくて、祈りというところで励まされ力づけられて、キリスト者として歩みましょう。