これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年11月17日「丸太とおが屑」(マタイによる福音書7章1~6節)

 前回は、神の国と神の義を求めて生きることの大切さをみました。その中で大切なことは、裁かないことです。1・2節。この、私達を裁くのは誰でしょうか。他者の裁きを恐れる必要はありません。それは前回みました。ただ、神が裁かれます。私達は終わりの日に皆、神の裁きの座につかなければなりません。私達が裁くことの愚かさが、3節。これは極端な例えだといえます。いくらなんでも、丸太・梁が目の中にあって気づかないなどということは考えられません。しかし私達は自分の罪や過ちに関する限り、この例えが自然に感じられるほどに鈍感なのではないでしょうか。そして自分の目の丸太がないかの如くに、ほんの僅かな他者のおが屑が見えてしまいます。4・5節。主イエスは、自分の目の丸太をまず取り除けと仰いますが、どのようにして私達の目の丸太を取り除くことができるでしょう。真剣に考えるほどに、無理です。できません。だから主イエスは、十字架に死ぬよりほかになかったのです。私達は自分の力で丸太を取り除くのではなくて、ただ主イエスの十字架によって私達の全ての罪が赦されたことに気が付くだけです。そして主イエスの十字架によって、丸太を取り除いて頂いた私達は、人を裁くような仕方ではなくて、愛と労りをもって他者のおが屑を取り除いていきます。自分が驕り高ぶって、上から人を裁くような仕方になるはずがありません。本来裁かれるべきは自分だということがよく分かっていますから。
 そのおが屑を取り除く生き方は、伝道の姿です。しかし伝道は、必ずいつも受け入れられるわけではありません。それどころか、拒否されることのほうが多いのではないでしょうか。だから、6節。犬に相手にされない聖なるもの(イヤリングという説も)、豚に踏みにじられた真珠,まさに主イエスの生きた姿です。私達は、伝道の心を生きます。しかし主イエスが十字架に踏みにじられたところまではしなくてもよいのだ、主イエスは私達をそう励まします。