これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年11月24日「与えて下さる父なる神」(マタイによる福音書7章7~12節)

 山上の説教も終盤に入ってきましたが、今日もまた、とても有名な箇所です。 7・ 8節。「求めよ、探せ、門をたたけ」。まず問題になるのは、これが何についての言葉なのかということです。私達の欲望に関するものでないことは明らかです。ここで、何よりもまず考えることは、主イエスがこれまで語ってきたような、キリスト者の生き方について、でありましょう。偽善者のようにではなくて、ただ神の眼差しに生きるとか、思い悩まないで生きるとか、人を裁かないとか、そういうことです。それらが大切であることが分かっていながら、なかなかそのように生ききることができない私達を主イエスは励まし、「求めよ」と仰る。古来、この求めるべきものは信仰だとも言われてきました。広い意味ではその通りだと思います。
 その理由づけ、具体的な例えが次に描かれます。9~11節。虐待などが問題になる現代社会においては、素直に頷くことが難しくなってしまっているかもしれません。しかし私達の多くは、自分自身の実感として(親の立場だったり子の立場だったりしますが)よく分かることです。そしてここで肝心なのは、親がただ子の求めるものを子の欲望に従うという仕方で与えるのではなくて、「良い物」を与えることです。勿論、私達人間はいつも不完全ですから、神のように必ず「良い物」とはならない場合もあります。しかし私達の天の父は、与えてくださいます、必ず良い物を。このことを信じることが、まさに信仰です。そしてこのような信仰に生きるとき、12節。律法、福音の黄金律と呼ばれてきたものです。ここには、愛の発露としての行為を考え込まなくて良いという慰めがあります。