これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年1月19日「枕する所もない」(マタイによる福音書8章18~22節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、主イエスがそういう何かを行う場面ではなくて、二つの問答が記されています。まず、そのきっかけともなる主イエスの命令をみましょう。18節。主イエスはここではっきりと自分を取り囲んでいる群衆を退けます。彼らから離れて、向こう岸に行こうとします。この主イエスの厳しい面も私達は知っておく必要があります。
 そして一つ目の問答です。19・20節。これは厳密に考えると、問答になっていません。律法学者は、従うと宣言しただけです。だから主イエスはそれに対して、肯定的、あるいは否定的な評価をしそうなものですが、「枕する所もない」と人の子(ご自身)のことを語ります。これを否定的な返答だと捉える方もいますが、むしろ、「従う」ことの意味を直接的ではなく教えておられるとみるのがいいでしょう。主イエスの本来の居場所は、神の言葉として、神の子として、天にあります。しかしあえて、神の身分に固執することなく、地上に来てくださった。自分には枕する所もない、本来の居場所ではない地上で、人々の患いを負い、病を担って(前回の17節)、私達に救いをもたらして下さる。この主イエスに従っていくということは、自分もまた、そのように歩むということです。その覚悟があるかと問い返しておられます。
 二つ目の問答では、そのように主イエスに従うことが、命の道であることが示されます。21・22節。死んでいる者が死者を葬るとは、どういうことでしょう。ゾンビのようなことが言われているのではありません。主イエスに従って、まるで「枕する所もない」ような地上での歩みをする時に、私達は命を得ます。本当に生きます。そのように主イエスに従って本当の命を生きていない者は、(厳しい言い方になりますが)死んでいるようなものなのです。そしてそのように主イエスに従って「枕する所もない」旅人として生きる時、私達は本来私達の本国は天にあって、私達もまた実は、「枕する所もない」自分を自覚する中で、主イエスと共に本当の命を見いだします。