これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年1月26日「風や湖さえも」(マタイによる福音書8章23~27節)

 今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日の箇所は、前回の箇所とまとめて読むべきだという意見もあります。前回、主イエスの弟子として生きることの覚悟が、二つの問答から教えられていました。主イエスは枕する所もない、そういう方に従っていく覚悟です。その流れで、今日の箇所は、主イエスが嵐の中であるにも関わらず眠っておられる姿からはじまります。23・24節。嵐は、地震という言葉です。全てが揺れ動き、自分たちの命さえ危ういと感じる、そういう状況です。しかし主イエスは眠っておられます。父なる神に全てを委ねて、信頼しきって眠っておられます。しかし弟子たちは異なります。25節。皆さんはこの弟子たちの行動をどう思いますか。「嵐で危ないのだから仕方がない」でしょうか。「主イエスが眠っておられるだから、心配しなくてよい、起こす必要はなかった」のでしょうか。
 教会はしばしば船に例えられます。確かに地震・嵐のようなこの世界の中で、主イエスが共にいて下さる船です。地震・嵐のない平安・平和がここにあるのではありません。嵐はあります。しかし、主が共にいて下さるから、私達は平安を生きます。主イエスを起こす弟子たちを主イエスは叱ります。最後をまとめて、26・27節。信仰が「薄い」とは「小さい」です。私達の信仰は確かに小さいのです。しかし「小さくてよいのだ」と開き直るのではない。こんな小さい信仰しかない自分はだめだと悲観的になるのでもない。弟子たち(人々)の驚きと共に、私達はこの方に驚きつつ、たとえ自分の信仰は小さくても、自分たちと共に眠っていて下さる主イエスがおられる、私達はこの方に救われる、この事実に励まされて、日々を歩みましょう。