これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年2月9日「権威ある者」(マタイによる福音書9章1~8節)

  •  今、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。今日は、対岸、ガダラ人の地方から帰ってきまして、最初の出来事です。有名な、中風の人の記事です。しかしマルコやルカと異なり、屋根に穴を開けるエピソードは省かれています。少し面倒な話をしますと、新約聖書が今の順序になっている(マタイがマルコよりも前にある)のは、マタイが先に書かれて、その要約版がマルコだと思われていたからだそうです。しかし実際は、(少し丁寧に読めば分かるのですが)マルコが先に書かれて、それもまた素材として用いて、マタイは書かれています。だから、マタイ福音書記者は、彼の視点から、大胆にマルコ福音書を要約しています。また、彼が必要だと思う加筆もしています。今日の箇所で最も大切な加筆は、最後にあります。8節。神が人間にこのような権威をお与えになった、人々は、恐れつつも、そのことで神を賛美します。罪を赦す権威です。5節の主イエスの問いは、どちらに答えることもできますが、答えてしまったとたんに何かを見落としてしまうような問いでしょう。大切なのは、主イエスが、癒す奇跡治癒者なだけではなくて、神から罪を赦す権威を与えられていることです。「教会」という私達の群れが、社会の様々なグループと決定的に異なるのは、ここで罪が赦されることです。主イエスが、目には見えなくても共におられることによって、教会では罪の赦しが宣言されます。事実神がここで罪を赦して下さいます。教会の使命は、この罪に塗れた社会で、神の罪の赦しをきちんと宣言し、伝えていくことです。教会は、「罪」を語るのではなく「罪の赦し」を語り続けます。この中風の人は、彼の信仰のゆえに、あるいは罪の告白・懺悔のゆえに、罪が赦されるのでありません。ただ、主イエスは自由に罪の赦しを宣言なさり、私達は罪が赦されてはじめて、自分の罪に気が付くのではないでしょうか。