これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年2月16日「罪人を招くために」(マタイによる福音書9章9~13節)

 前回は、中風の人の記事を通して、罪を赦す権威をみました。主イエスはその場所をたち、マタイに声を掛けます。9節。マルコやルカでは、レビです。なぜ名前が異なるのでしょうか。二つの可能性(二つの名前の同一人物、出来事が別々にあった)は蓋然性が低いといわれます。マタイ福音書記者が、名前を変えたと考えるのが自然です。ではなぜ変えたのでしょう。これも幾つかの可能性がありますが、蓋然性が高いのは、十二使徒の一人と同定したかったというものです。かつて、このマタイが、マタイ福音書記者だと考えられていました(ギリシャ語の前に、アラム語のマタイ福音書があったのだという説も含めて)。現代では、様々な理由からその可能性は低いと考えられています。しかしこの徴税人マタイ(あまり地位は高くないと思われる)も、マタイ福音書記者も、そして私たちにも共通しているのは、主イエスに「わたしに従いなさい」と命じられて、立ち上がって従ったことです。声を掛けられてから実際に従うまでの時間や経緯は様々ですが、主イエスが主導権をもってまず声を掛けてくださり、声を掛けて頂いた私たちが従うのは、今も昔も変わりません。
 次は、食事を共にしていた時のファリサイ派の人々です。10・11節。同席しないことが、「けがれ」が移らないために基本的なことでした。声を掛けられたのは弟子たちですが、主イエスが答えます。12・13節。もしもいけにえを第一とするならば、ファリサイ派の人々のように、自分たちの「清さ」のために分け隔てすることになるでしょう。しかし主イエスは、「憐れみ」を第一とします。神が求めるのは何よりもまず、憐れみだからです(ホセア書)。そして正しい人ではなくて、罪人を招くために自分は来たのだと仰います。罪の根底にあるのは、神を否定・拒否することですが、その一つの変化形として、神の前に自分たちだけが正しくあろうとする行為(ファリサイ派の人々のように)があります。まず大切なことは、自分が主イエスの憐れみを必要とする罪人であると気が付くことです。そして私たちを招くために、主イエスは十字架に掛かられました。