これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年3月1日「十二年間も」(マタイによる福音書9章18~23節)

 前回は、なぜ主イエスとその弟子たちが断食をしないのかという問いに答えるものでした。婚宴のような場では断食をしません。主イエスという花婿がおられるので、私たちの群れは喜びの群れであって、断食はありません。
 しかしそれに続いて描かれるのは、二人(二組)の、喜びとはかけはなれた姿です。指導者ヤイロの娘、そして出血が続いている女です。実はこの記事は、全ての共観福音書にあるのですが、マタイはマルコを半分以下に短くしています。マタイ福音書記者が、大切だと思う部分を残して、大胆に短くしています。今日の箇所でポイントになるのは、「十二年間」でしょう。この女の子は、わずか十二年の間生きて、死にました。この出血の女は、十二年もの間、苦しみ続けました。そして主イエスと出会います。女の子は生き返ります。女は癒されます。私たちは、この二人のように、癒しと生き返る奇跡を知りません。新興宗教や一部のキリスト教のように、「癒し」を売りにしてはいません。恐らく、マタイ福音書が描かれた時代にも、既に奇跡の時代は過去のものになっていたことでしょう。それなのになぜ、マタイ福音書記者は、この出来事を描いたのでしょうか。単に「昔はよかった」と主イエスが人間として生きておられた時代を懐かしんだのでしょうか。断じてそんなことはありません。マタイの時代の教会にも、そして私たちの現代にあっても、この記事は、希望の記事です。私たちの祈りは、「叶う」という仕方で聞かれることもあります。しかしまた「叶わない」という仕方で聞かれることもあります。「叶う」か「叶わない」かが大切なのではありません。【22節】指導者の娘のもとへ急ぐ主イエス(とその一行)です。通りすぎても良かったのです。しかし、この女が癒されることよりももっと大切なこと、振り向いて見つめ、声を掛けることを主イエスはしておられます。今も私たちと共におられ、振り向いてくださる主イエスと共に生きましょう。