これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年3月22日「平和を願う私たち」(マタイによる福音書10章1~15節)

 今日から10章になります。前回(9章の最後)は、橋渡しの箇所でもありました。最後に、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う(祈る)べきことが語られていました。そう語られた主イエスは、働き手として用いるためなのでしょうか、十二人の弟子たちを使徒として選び、汚れた霊に対する権能をお授けになります。そしてこの十二人を派遣します。派遣されていく相手が、イスラエルに限定されていることは、カナンの女の記事の主イエスの発言(15章24節)ともよく合っています。主イエスは、まず、神の民イスラエルにこそ派遣されているのだと自覚していました。罪の故に、彼らが「失われた羊」であったからでしょう。彼ら弟子たちがなすべきことは、主イエスのなしてきたことです。7・8節です。主イエスから権能を授かって、主イエスのなさったことを行います。その際の注意事項、9・10節は、最初の弟子たちだけへの言葉なのか、それとも一般原則のようなものなのか、議論されます。
 今日はその次の、平和があるようにという挨拶に注目しましょう。11節以下です。シャーロームという挨拶の言葉は、今でも広く用いられています。しかしここでは挨拶以上の意味があるでしょう。この平和は、主イエスが共におられ、主イエスが造り、主イエスが保ち、主イエスが担って下さる平和です。この平和は、弟子たち(私たち)が造り出すものではなくて、神が与えるものです。だからこそ、受け入れる者たちにはその者を包み込むような大きな平和となり、受け入れない者は、足の埃を払い落として、救い・平和とは無関係であることを示します。受け入れなかった者は、受け入れなかったがゆえに、自分の責任においてソドムやゴモラよりも重い罰があります。私たちは、主イエスの平和を受け入れ、この平和を携えていきましょう。