これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年4月12日「命を得る生き方」(マタイによる福音書10章34~39節)

 イースターおめでとうございます。
 現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、ただ神のみを恐れることが教えられていました。そこでは、神以外の全てを恐れない生き方があります。
 今日はその続きとして、命を得る生き方が示されています。39節です。大変厳しい言葉です。「そんなに無理なことが求められるならば、キリスト者として教会に連なるのはやめておいた方がよい」、そんな感想が聞こえてきそうです。今日の主イエスの語られる言葉にそって、どういう意味なのか、命を得る生き方とは何なのか、みていきましょう。
 まず主イエスが仰るのは、自分は平和をもたらすためではなくて、剣をもたらすために来たということです。34~36節です。この剣は、どんな剣でしょう。人々を裁いて地獄へ送る剣ではありません(そう捉えるならば、キリスト者の傲慢が起こるでしょう)。主イエスご自身が刺し貫かれた剣、十字架という剣です。私達が真剣に主イエスの後に従って生きるならば、主イエスへの愛に生きるならば、私達もまた刺し貫かれるかもしれない剣です。
 だから「ふさわしさ」ということが言われます。37・38節です。私達は、自分の十字架を担って主イエスに従うことができるでしょうか。そのようにして、自分の命を得る生き方を形作ることができるでしょうか。それが本来私達には無理であったからこそ、主イエスは十字架に死ななければなりませんでした。弟子たちは、誰一人として、逮捕される主イエスに従うことはできないで逃げ出しました。そしてそのようにして殺された主イエスを神は、復活せしめられました。この主の復活があるからこそ、逃げ出した弟子たちは、もはや逃げるのではなくて、たとえ殺されても主イエスに従っていくことができました。私達もそうです。本来の私達は、自分の罪のゆえに主イエスを十字架に殺すことしかできません。しかし今日イースターにおいて、特に年に一度覚えますように、主イエスが復活させられたから、私達は命を得る生き方が可能になります。自分の十字架を担って主イエスに従っていくことができます。(今回からフェイスブックによる礼拝の配信をはじめました。関心のある方はどうぞ)