これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年5月24日「私の軛(くびき)は」(マタイによる福音書11章25~30節)

 今日の聖書箇所は、「そのとき」とはじまっています。前回見た、町々を叱った、主イエスが「ウーアイ」と嘆かれたときです。まず前半、25~27節をみましょう。まずここで私達のフツウの感覚で不思議なのは、主イエスが父なる神をほめたたえていることではないでしょうか。呪いの言葉や恨み節の方がこの箇所には相応しいでしょう。しかし主イエスは、父なる神をほめたたえます。その理由は、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ったからであり、それが「御心に適うこと」だからです。主イエスの奇跡の業に触れた全ての者が悔い改めるのではありません。「幼子のような者」、ただ主イエスが「示そうと思う」者だけが、父なる神を知ります。それは、この世界に広がっているような差別・選別とは全く異なるものです。神の選びです。どんな立場の方であっても、主イエスと出会うときに、私達は、自分が幼子に過ぎないことに気が付かされます。そのように、自分の力では「神を知る」ことにたどり着けないのだと分かる者だけが、悔い改めて信仰に生きます。
 更に主イエスは、人々を招きます。28節です。この言葉はよく、教会の案内甲板などに書かれています。[ある老牧師の話]。28節だけを読んで、29・30節を無視することは、申し上げるまでもなく、正しい読み方ではありません。主イエスの招きは、何もしないでただ安らぐ所への招きではありません。主イエスの軽い軛を負い、主イエスに学び続ける時に与えられる安らぎです。[神の国のイメージについて]。私達は、本来負わなくてよい重荷を下ろして、十字架の贖いによって、その柔和と謙遜を示して下さった主イエスに従う歩みによって、どんな状況でも安らかに生きましょう。