これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年5月31日「安息日の主」(マタイによる福音書12章1~8節)

 今日から新しい単元に入ります。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の出来事の発端は、弟子たちが麦の穂を摘んで食べることです。その行為そのものは何の問題もありません。かつてはこの国もそうでしたし、律法にきちんと書かれています。人の畑を狩り入れしてはならない(それは泥棒です)けれども、麦の穂を摘んで食べることは許されていました。1・2節です。問題は、「安息日にしてはならないことをしている」ことです。当時安息日規定・律法は、とても厳格に考えられていました。その結果、ファリサイ派のような人々も、地の民と呼ばれ差別される人々もおりました。麦の穂を摘む位よいだろうと私達は考えますが、ファリサイ派の人々はそれも労働であって、安息日にしてはならないと考えます。安息日規定をその根本的な考え方を大切にしつつ、自由に生きるのではなくて、細かく内容を定めていきます。その結果、差別や蔑視が生まれてきます。本来安息日は、人間が人間らしく生きることができるように、神の安息にならって、しっかりと休んで神を思うためにあります。しかしそれが全く別のものになってしまいます。ここで主イエスが挙げている二つの例(ダビデと祭司)は、様々な反論ができます。大切なのは、その後の記述です。
 まず6節です。私達は神殿よりも主イエスが偉大であることを知っています。しかしファリサイ派の人々からみれば、何とも傲慢な物言いでしょう。しかし主イエスが仰ったことの意味は、8節です。私達も安息日を大切にしますが、それは安息日の主であるイエス・キリストがおられるからです。主イエスこそ、安息日の規定さえも安息のためではなくて、差別や偏見のために用いてしまう私達の罪を赦して、安息をくださいます。神がいけにえではなくて、憐れみを求めるというとき、それはいけにえはどうでもよいということでありません。いけにえにも勝って、憐れみに生きる、それは主の安息に支えられているからできることです。