これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年7月5日「空白はいけない」(マタイによる福音書12章43~45節)

 ベルゼブル論争からはじまった箇所は、今日の主イエスのたとえ話で終ります。このたとえ話に出てくるのは、汚れた霊です。例えの出来事自体はとても単純です。汚れた霊がまず、誰かから出て行きます。43節です。なぜ出て行くのかは描かれていません。休む場所を探すのですから、引っ越そうと思ったのでしょうか。しかし、休む場所は見つかりません。そこで、44節です。汚れた霊がいない間に行われたことは、掃除です。整えられていたのです。最後結論は、45節です。他の七つの悪い霊を連れてきます。だから、(最初は一つの汚れた霊だけであったのに)多くの悪い霊が住み着き、もっと悪い状態になります。
 この例えで主イエスは何を語ろうとなさっているのでしょうか。寓意的解釈は必要ないでしょう。この例えが明らかにしているのは、「この悪い時代の者たち」のことです。主イエスが神(の子)の力で悪霊を追い出しても、悪霊の頭ベルゼブルの力で追い出すのだという、ファリサイ派や律法学者のことです。しかし彼らばかりではなくて、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ群衆など、神の子を受け入れない当時の全ての人々でしょう。更には、現代においても、主イエスを受け入れない大勢の方々がおられます。今日の説教題を「空白はいけない」としましたが、そもそも空白のままではありえません。主イエスに対しては、必ず受け入れるか拒否するかの二つに一つです。主イエスを受け入れない者は、空白・中立のままではありえません。そこには、悪霊が住み着きます。神の霊・聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らうことになります。さあ私達は、自分の内にイエス・キリストを受け入れる生き方をしましょう。