これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年7月19日「種を蒔く人」(マタイによる福音書13章1~23(10~17を除く)節)

 今日の箇所は、いつもと異なり、10節から17節を省いています(次回扱います)。前半が種を蒔く人のたとえそのもので、省いた部分がたとえを用いて話す理由、そして後半がたとえの主イエスご自身による説明です。しかし学問的には、たとえそのものは主イエスに遡り、たとえの説明は後の教会の解釈だとする説も成り立ちます。ですから、18節以下とは別に9節までを様々な仕方で読み解くこともできます。それは、混乱ではなくて、聖書と聖書の読み方の多様性であり、私達は多様な読み方から多様な事柄を学ぶことができます。
 今回、合わせて読んだのは、18節以下の解釈に従ってこのたとえを読むことを意味します。9節までのたとえでは、種を蒔く人が誰で、種が何であるか、様々に受け止めることができます。しかし18節からの説明を聞きますと、種を蒔く人は、主イエス(と主イエスに派遣されて御言葉を語る人)です。種は、御国の言葉です。ここで日本などの種蒔きと当時のパレスチナの種蒔きの方法の違いが分からないと、様々な必要のない問いが出てきますから、簡単にみておきましょう…。
 そうするとたとえの中身自体は分かりやすいようにも思えます。紙芝居などでもよく題材になります。今日の三つの事柄だけをみましょう。実際に取り上げるのは、最初の道端に蒔かれた種です。18・19節です。まず第一に、蒔かれた種は、御国の言葉であり、私達の心の中に蒔かれたはずです。しかし主イエスは、「こういう人である」と仰います。蒔かれた種、御国の言葉と、私達人間との同一化、一体化が起こっています。御国の言葉が語られ聞かれるならば、そこでは聞いた者が(最終的な反応はまちまちですが)変わらざるを得ない、蒔かれた種と蒔かれた土地は一つになります。第二に、それでは蒔かれた土地である私達は最初から良い土地なりなんなり決まっていて、どうすることもできないのでしょうか。予定的な意味ではその通りです。しかしまた、主イエスは、「耳のある者は聞きなさい」(9節)との励ましの言葉をくださいます。第三に、主イエスは、「百倍、六十倍、三十倍」(8、23節)と仰います。本来聞く耳のない私達が、十字架の主に励まされて、聖霊の導きによって聞く耳を与えられるように祈り求め続けましょう。