これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年7月26日「なぜ例えを用いるのか」(マタイによる福音書13章10~17節)

 今日の箇所は、種蒔きの例えとその説明に挟まれた部分です。なぜ(弟子たちが直接天の国の秘密を悟ることが許されているに)群衆は例えを用いて間接的にしか聞くことができないのか、弟子たちが主イエスに聞きます。10節です。主イエスはお答えになります。11~13節です。
 私達がふつう例えを用いるのは、分かりにくい事柄を分かりやすく伝えるためです。この箇所の主イエスの説明はそれとは反対です。そこには、ユダヤ黙示文学の流れがあるそうです。例えは、アラム語では、「謎」という意味があります。そしてまた当時の初代教会では、なぜ多くのユダヤ人が福音を聞こうとしないのかという問いがありました。それに答える意味もあります。なぜ神の民であるはずのイスラエル、ユダヤ人が聞こうとしないのか。「聞いても聞か」ないからです。そして「耳のある者は聞きなさい」(9節)との呼びかけに応えた、一部のユダヤ人と多くの異邦人が、天の国の秘密を悟ることになります。それは既にイザヤ書に預言されていたことでした(14・15節)。
 17節で、主イエスは、「しかし」と仰って、今まで語ってきた信じないユダヤ人の話から、あなたがた・弟子たちの話へと転換します。16・17節です。山上の説教でも語られていた「幸い」がここで語られます。多くの預言者たちや正しい人たちが望んでいたけれど見ること・聞くことのできなかったものを私達は与えられている。聞くことのできない不幸よりも、私達は聞くことのできる幸いに目を止め、この幸いを与えるために、主イエスが十字架に死んでくださったことを想いましょう。