これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年8月16日「天の国は」(マタイによる福音書13章44~50節)

 今日もまた、天の国の例えの続きです。種蒔きの例えも毒麦の例えも、そしてからし種とパン種の例えも、既にみました。例えというものには、説明的言語と異なり、決して汲み尽くすことのできない豊かさがあります。今日も三つの例えから、そのような豊かさの一部をみてみましょう。
 一つ目と二つ目の例えは、(からし種とパン種の時と同じように)似たような意味をもつ二つの例えだと言えます。44~46節です。これらの例えのポイントは、大切なもの(宝、高価な真珠)が見つかったならば、何にかえても(自分の持ち物を全て売り払ってでも)手に入れようとすることです。ここで、探し求めよとは、言われていません。なぜなら、一つ目の例えではたまたま見つけ、二つ目の例えでは一所懸命探しています。探すか探さないかは問題ではありません。ただ、見つかったならば、その大切さ・重要さ・かけがえのなさのゆえに、それ以外の物を全て捨ててでも手に入れようとすることが、ポイントです。もちろん、天の国が「所有」できるなどと言っているのではありません。天の国(天国、神の支配)は、神が支配なさるのですから、わたしたち人間は所有などできません。ただ「御国の子ら(所属する者ら)」として、天の国を生きるだけです。パウロは、フィリピ3章7・8節のように述べています。天の国を見つけた者は、そのようであるはずです。尤も私達は愚かですから、そう理屈通りにはいかないので、このように励まされているのですが。
 三つ目の例えは、網でする漁の例え、47~50節です。これは、毒麦の例えと似た例えです。幾つかの違いもありますが、違いに注目するよりは、今一度、意味をみましょう。最後の審判の比喩になっています。しかしそれだけをみればよいのではなくて、主イエスの十字架がそれを越えていく奇跡を指し示しています。天の国を生きましょう。