これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年9月13日「神の言葉を無にする罪」(マタイによる福音書15章1~9節)

 今日の箇所は、次回の箇所と合わせて一まとまりです。今回は、一度に語るのは無理だと感じました。前半を今日、後半を次回みてみます。きっかけは、ファリサイ派の人々と律法学者たちがやってきて、問います。1・2節です。ポイントは、「エルサレムから」です。主イエスが主に活動なさったのはガリラヤですから、都エルサレムから来るというのは、大変なことです。食事の前に手を洗うのは、私達のように衛生的な意味(コロナ対策など)ではありません。宗教的な意味です。昔の人の言い伝え(主イエスは自分の言い伝えと言い換えている、3、6節)とは、神の掟・律法を守るために必要だと考えられた細かい規定です。その中に、異邦人と触れている可能性を考えて手を洗って(しかもかなり細かく具体的な方法も定められていた)けがれを落とします。このこと自体については,次回の箇所になります。
 まず主イエスは、コルバンを用いて、彼らが、言い伝えを用いてどれほど神の言葉、律法から離れてしまっているかを指摘します。3~6節です。敬うとは、決して精神的な意味だけではありません。経済的な必要を満たすことも含まれています。それなのに、神への供え物だといえば、この義務を免除されるという言い伝えがあります。確かに、人への義務よりも神への義務のほうが優先されます。しかしそれが、言い訳になってしまい、経済的に両親を養わない根拠にされてしまいます。それを主イエスは、神の言葉を無にする罪だと指摘なさいます。それはまさに、イザヤが預言したように、偽善者のすることです。7~9節です。しかし私達は、神の言葉を無にすることなどできるでしょうか。神の言葉は、一度神が発せられたならば、むなしく消えていくことはありません。この箇所の「無にする」とは、本来私達の生きる指針となるはずの神の言葉が、私達人間の罪によって無視されることです。ファリサイ派の人々と律法学者のことだから、私達には無関係だ、などとはいえません。自分がどれほど神の言葉を無にする罪を犯しているかの自覚がないところでは、それこそ、神の言葉を無視し続けることになります。しかしそんな私達を救うために、主イエスは十字架に死んで下さった。この事実にしっかりと立つ時に、私達はこの罪から離れて生き始めることができます。