これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年9月27日「食卓から落ちるパン屑」(マタイによる福音書15章21~28節)

 一般に福音書の頂点・中心は、もう少し先です。ペトロの信仰告白や山上の変貌の記事です。しかし私は、それ以前、今日の箇所にこそ決定的な出来事が起こっているのだと思います。この箇所に出てくるのは、主イエスとカナンの女と弟子たちです。弟子たちは脇役でしょう(23節後半)。カナンの女に注目するならば、極端なまでのまっすぐな信仰です。主イエスは、この女の信仰を「立派だ(大きい)」(28節)と評価なさいます。衣の裾に触れた出血の女の場合など、主イエスは一途な信仰を評価して下さいます。湖の上を歩く主イエスの、ペトロに対する言葉、「信仰の薄い(小さい)者よ」(14章31節)との対比が目立ちます。
 しかし今日は、主イエスの態度の変化に注目しましょう。最初、女が叫びんでも、主イエスは何もお答えになりません。そして弟子たちに促されてはじめて、仰います。24節です。更に女が食い下がると(25節)、26節のようにお答えになります。24節や26節の主イエスの言葉には、あまりにも冷たい響きがあるのではないでしょうか。そこにあるのは、主イエスが「イスラエルの家の失われた羊」(イスラエル全体か一部か議論の分かれる所ですが)にのみ遣わされているのだという自覚です。私達異邦人も含めてすべての人間に遣わされているという自覚ではないのです。このカナンの女との出会いによってはじめて、主イエスは私達への使命を自覚なさいます。[ギリシャ哲学の真理とヘブライ文学の真理について。神の名、あってある者について。〕主イエスは、神でありながら、人との出会いを通して変わられます。信仰者として、私達も変わらない頑なな信仰ではなくて、主イエスと共に生きる柔らかい信仰を生きましょう。