これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年11月8日「山を下りて」(マタイによる福音書17章14~23節)

 前回は、山上の変貌の記事でした。現代の私達には少し分かりにくいのですが、イエス・キリストの決定的な栄光の現れです。主イエスは、その栄光にとどまり続けるのではなくて、山を下りてきます。16節までが、今日の聖書箇所の主イエスの言葉と癒しへと導く出来事のはじまりでしょう。主イエスと三人の弟子たちが、山の上で特別な体験をしているときにも、山の下では、残りの九人の弟子たちがてんかんを癒すことができないという出来事が起こっています。主イエスはお答えになり、癒します。17・18節です。主イエスは、この時代(の人々)を嘆かれます。我慢しなければならない(下から支え続けならければならない)ことを嘆きます。神の救いの計画において、主イエスは、どんなによこしまな時代であろうと(否、よこしまな時代であるからこそ)、何もせずに父なる神のもとに戻るわけにはいきません。
 弟子たちは、主イエスに派遣されて、神の言葉を語り悪霊を追い出し、病を癒す体験をしています。なぜ私達はできなかったのだろう、と、疑問をもち、ひそかに主イエスに尋ねます。19節です。そして主イエスはお答えになります。20節です。湖の上を歩いた出来事(14章22節~)が思い起こされます。ここでも問題なのは、信仰の小ささです。からし種一粒ほどの信仰があれば、山でも移ります。私達にまず必要なことは、私達にはからし種一粒ほどの小さな信仰さえないのだ、「信仰のない時代」(17節)としか言えない現実があるのだと、自覚することです。ここで主イエスは、「もっと頑張って大きな信仰をもちなさい」と勧めておられるのではありません。(21節については後の付加と考えられる。)
 22・23節です。まだ分かっていない弟子たちは、悲しむしかありません。しかし私達は、知っています。信仰の実に小さな(ないとしかいえないような)私達の救いのために、神の子である主イエスが、十字架の死を受け入れたことを。復活によって、こんな私達もまた、主イエスの後に続いて永遠の命に招かれていることを(今日は召天者記念礼拝)。さあ、十字架と復活によって、自分たちの力では救いに至ることのできない私達の現実を逆転してくださった神の恵みに感謝して歩みましょう。