これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年11月22日「躓きをもたらさないために」(マタイによる福音書18章1~9節)

 今日の聖書箇所は、「そのとき」ではじまっておりますように、前回の箇所と緩やかに繋がっています。まず、1節です。ペトロの特別扱いが、彼らの問いの引金かもしれません。弟子たちは、まだ十字架と復活が分かりませんから、神の国(支配)を誤解しております。だからこのような問いになります。主イエスはお答えになります。2~5節です。弟子たちの子どもっぽい問いに答えつつ、主イエスは微妙に話の焦点をずらしておられます。最初は、天国(神の支配)に入る(偉い・大きな者となる)には、子どものようになる必要があるということです。それが、子どもを受け入れるという話になります。
 まず、「子どものようになる」とは、どういう意味でしょう。様々な議論がありますが、ヒントになるのは、「自分を低くして」(4節)です。純真とか無邪気とかいうことではなくて、当時の社会状況において子どもがどのような存在であったかをみれば分かるように、自分の力では生きることができない未熟な存在であるという自覚をもつことです。大切なのは、(本当は低いなどと思っていないのに)低いふりをするということではなくて、本当に低くする、神の前に子どもとしての自分を生きることです。
 そしてそれは、受け入れる話になります。子ども(小さな者)を受け入れる・つまずかせない者は、キリスト・イエスを受け入れることになるのだ(5節)と主イエスは約束して下さいます。しかもそこでたった一つの条件は、「わたしの名のために」です。いつでも誰でもどんな状況でも受け入れるというのではありません。わたしの名、つまり主イエスのために受け入れます。それは、「わたしを信じる小さな者」を受け入れること、つまずかせないことです。6~9節をみれば、そのことの厳しさがよく分かります。さあ、私達は、「誰が一番か」などという子どもっぽい愚かな問いに生きるのではなくて、まっすぐに、キリストの名のために励みましょう。