これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年1月10日「永遠の命を得るには」(マタイによる福音書10章40~11章1節)

今私たちは、夫婦、子ども、そして財産の問題という、とても身近な三つの事柄をみています。文脈は、小さな者への配慮から、エルサレム入城との間の箇所です。まず前半をみましょう。13~15節です。手を置いて祈って頂くために子どもたちを連れてくる人々をなぜ弟子たちは叱るのでしょう。既にエルサレムへ向けて進む緊張感があったのかもしれません。少なくとも弟子たちは、主イエスがこれから何事かをなそうとしていることを感じ取っていたのでしょう。しかし、主イエスは弟子たちをいさめて、「天の国はこのような者たちのもの」だと仰います。この辺りの底辺に流れているのは、常にこの「天の国」(神の国、神の支配)の事です。
 これは、金持ちの青年の箇所では、「永遠の命を得る」という表現になっています(次回の23節から分かります)。まず、彼は問います。16節です。そこから、二人の対話がはじまります。17~20節です。この金持ちの青年の様子が少し分かってきます。とても真面目で、単にお金持ちなだけではなくて、神への熱心、律法への熱心があることが分かります。彼に対する主イエスの答えは、当たり前の平凡なものです。ただ三つのことだけに注目しましょう。まず第一に、「善いこと、善い方」のこと。第二に、主イエスが掟を具体的に挙げるときに、十戒の前半、神と直接関わる箇所を仰らないで、人間関係の箇所だけを語っておられること。第三に、この青年は、律法をきちんと行いつつも、神の国・永遠の命の確信がもてないでいたことです。
 いったい何が彼の問題だったのでしょう。最後に主イエスは仰り、この青年は去っていきます。21・22節です。ここから某かの一般原則(例えば、全てキリスト者は、全財産を施すべきだとか、在野と出家のような二つの階層を想定するとか)を読み取ることは間違っています。更に、様々な形で、この主イエスの言葉を薄めて読むことも違います。ただ、この青年にとっては、金持ちであることこそが、幼子のように、ただまっすぐに神にのみ頼ることを阻害していることが問題です。私たちが神ならざるもの、例えば財産・才能・美貌・知恵などに頼ってはいないか、全き神への信頼に生きているか、問い直してみましょう。