これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年1月17日「新しい世界へ」(マタイによる福音書19章23~30節)

 今日の聖書箇所は、前回(先週)、金持ちの青年が悲しみながら去っていった後で、弟子たちと語られた箇所です。まず主イエスは、金持ちが救われることの難しさを語ります。それに対して、弟子たちが驚きます。23~25節です。この弟子たちの驚きは、山上の説教などで主イエスの教えを知っていればありえないことです。しかし当時の常識(金持ちは、神に従うから神からの恵みとして金持ちなのであり、天国もその延長上にある)からすれば、よく分かります。「だれが…」という弟子たちの嘆きに主イエスは答えます。26節です。「神は何でもできる」。これこそ信仰の要・急所です。救いようのない私たちが、それでもなお、救いを確信することができる、それは、神は何でもできることを主イエスの復活によって、知っているからです。十字架の罪の赦しを知っているからです。

   次のペトロの問いと主イエスの答えはここまでの文章の流れからすると、少し不思議です。27~29節です。むしろその前の、金持ちの青年との対比で、ペトロは語ったのでしょう。しかしこの後の出来事(ペトロの否認など)をみると、ここで主イエスが報いを語っているのはおかしなこと、叱責すべきではないかとさえ感じます。しかし主イエスは報いを約束なさいます。これはまた、私たちへの励ましではないでしょうか。たとえ私たちがどんなにたどたどしい歩みであったとしても(完璧で英雄的な歩みではなかったとしても)、主イエスは私たちに報いを約束してくださる。来るべき新しい世界で、そのような豊かな主の報いがあることに、私たちは信頼してよいのです(マルコの報いとの違いに注目)。来るべき新しい世界へと私たちは招かれています。この世界がまだそうなっていないとしても、私たちはこの新しい世界を知っており、この新しい世界への希望と期待をもって、今を生きます。
 最後、30節です。次回のぶどう園の労働者のたとえでその意味をみましょう。