これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年1月31日「仕えるためにこそ」(マタイによる福音書20章17~28節)

 前回、ぶどう園の労働者の天の国の例えを通して、私たちが信仰者・キリスト者として生きることを今一度省みる機会を与えられました。それに続いて今日の箇所では、三度目の死と復活の予告です。この予告の度に私たちが注目したいことは、ここに(受難だけではなくて)復活の予告があるのだということです。更に、三度目の・今日の予告では、十字架がはっきり語られています。しかし弟子たちは、主イエスの逮捕の時には全員逃げ出します。また、主イエスが復活もまた予告しておられたことは、後になって、そういえば、と、思い出します。
 ですから次の段落で、ヤコブヨハネの母が願い出る時には、三度目の予告自体が十二人の弟子だけを呼び寄せて語られましたし、二人の母は予告のことが分かっていないで、エルサレムに近づく中で、「自分の息子たちのために」という切実な思いで願い出たのでしょう。20・21節です。(マルコでは母ではなくて本人たちになっていますが本当の所はよく分かりません。)この後の出来事を知っている私たちには、彼らが何を願ってしまったか、またその結末がどうなるか分かります。しかし彼らはまだ何も分からないので、杯が飲めると勇ましく答えます。22・23節です。杯はもちろん、苦難であり十字架であり殉教です。
 これを聞いて、他の十人が腹を立てます。そしてそれをきっかけにして、主イエスは大切なことを教えます。24~28節です。少し穿った見方をしますと、ここには、偉くなるための方法が描かれているようにもみえます。しかし断じてそうではありません。主イエスが、仕えるために、自分の命を献げるために来られた。それと同じように、ということは、その前に、「神と等しいものであることに固執」しないで、「人間と同じ者に」なられた(フィリピ2章)主イエスの現実があります。私たちも、偉くなりたいからではなくて、仕えるためにこそ、今を生きましょう。