これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年3月28日「婚宴のたとえ」(マタイによる福音書22章1~14節)

 今日の例えは、ルカにもよく似たものがあります。しかし決定的に異なるのは、6・7節です。ルカでは文脈が異なることもあって、この厳しい言葉はありません。この例えが意味するところは明白です。前もって招かれていたのに断ったのは、当時の宗教的指導者たち(とイスラエルの人々)です。9節にあるような、「誰でも」はイスラエルだけではなくて、異邦人・私達をも含みます。彼らが神の招きに応えなかったので(それどころか主イエスを殺したので)、私達、本来神の民でない者たちが招かれることになりました。前の二つの例えと同じモティーフが貫かれています。
 私達が注目すべきは、最後に礼服を着ないで追い出された人物でしょう。11~14節です。当時の礼服は、現代と異なり(現代ではネクタイを変えるだけで様々な場面に対応できる)、婚宴用のものは婚宴だけにしか用いることができなかったそうです。そして、道を歩いている人たちが、礼服を着ていたとは考えられません(そもそも貧しい人々は王子の婚礼に出席できるような式服はもっていないでしょう)。王が婚礼に参加する人々に貸し出す習慣がありました。だからこの人は、王が用意した礼服を拒否したということです。しかも「黙っている」とあるように、この男は、なぜそうしたのかという説明もできませんでした。
 私達が礼拝に参加することは、王の婚宴の席に招かれて人々が参加するように、主イエスの祝宴の席に、神に招かれて参加することです。そこには、神が備えてくださる相応しい「服装」(心構え、心のあり方)があります。キリスト者(神中心主義)とヒューマニスト(人間中心主義)とは、とてもよく似たところがあり、社会活動などでは協力し合うことも多いです。しかし決定的に異なるのは、この点です(マザーテレサの例など)。この「主の祝宴」に参加することを最も大切なこととして、そこから押し出されて、私達はこの世界という畑へと向かいます。さあ、今日からはじまるイースターまでの最後の一週間も、このような自覚をもって生きましょう。