これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年4月4日「復活とは」(マタイによる福音書22章23~33節)

 イースターおめでとうございます
 次回の(聖書ではすぐ前の箇所の)税金問答とは異なり、今日の箇所にはサドカイ派の人々が出てきます。23節です。ここでは、復活はないと主張していることだけが紹介されています。彼らは、聖書がモーセ五書だけだと主張していました(まだ旧約聖書が閉じられていません)。そしてモーセ五書には、「復活」についての明確な記述がありません。だから、復活はないと主張しています。彼らが、(復活はあると主張する)ファリサイ派の人々と議論するときによく用いるのが、いわゆるビブラート婚です。戦前の日本と同じで、個人よりも「家」が大切でした。家の存続のためにこのような仕組みがありました。24~28節です。この議論が、現実的な切実な事柄ではなくて、議論のための議論であることは、そういう意味ではとてもつまらない議論であることは明らかです。
 ファリサイ派の人々も、この議論に対する答えはできていたようです。長男の妻だと主張していたようです。するとそこから、終ることのない瑣末な論議がはじまります。主イエスはそのような議論に踏み込まないで、入り口で、彼らの思い違いを指摘します。29~31節です。「聖書も神の力も知らないから」というのは、とても大胆な発言です。復活の姿は、彼ら(サドカイ派ファリサイ派もどちらも)は、現在の延長としてしか捉えていません。それに対して、主イエスは、天使のようになって、もはやめとることも嫁ぐこともないのだ、と仰います。夫婦の関係は、私達人間の最も基本的な関係であって、それが失われるというのは、何とも寂しい感じがします。しかしそれは、神の中にあって、私達個人と個人の関係が、深く強くなることです。そして、神が生きている者の神であって、しかもアブラハム、イサク、ヤコブの神であるならば、彼らは死んで終り(サドカイ派の人々が主張するように)ではなくて、今も生きている、復活はあるのだということです。主イエスが復活してくださった(厳密にいえば神によって復活させられた)のは、私達の初穂としてです。主イエスは今も生きておられ、目には見えなくても、私達の復活を保証し、日々助けてくださいます、私達が神の民として生き抜くために。