これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年4月25日「ダビデの子」(マタイによる福音書22章41~46節)

 「ダビデの子」という呼び方は、当時救い主の呼び方として定着していました。実際、主イエスエルサレム入城の際には、人々が(子どもたちまでも)そう叫びました。それに対して主イエスは否定なさいません。それどころか、黙らせるならば、道端の石ころが叫びだすとさえ仰います。今日の聖書箇所でも、主イエスに答えて、ファリサイ派の人々は、「ダビデの子」ですと言います。41・42節です。
 しかし今日の聖書箇所は、主イエスが「ダビデの子」という呼び方を拒否しているようにもみえます。43~45節です。これは、詩編110編1節です。この発言で主イエスは何を語っておられるのでしょう。それは文字通り、ダビデがメシアを主と呼んでいるではないか、ということです。
 「子」には、ヘブライ文学の伝統において、様々な意味があります。まず、そのまま「子」、更には「子孫」の意味です。次に、「光の子」に代表されるような、…に属する者という意味です。主イエスダビデの子孫ですから、否定することは、事実を否定するか、主イエスがメシアであられることを否定することになります。ですから、否定・拒否はありません。ただ、当時、植民地支配の中で、それを打破するメシアとして、「ダビデの子」という呼び方で期待をしていました。主イエスが(まだ十字架前なので直截な表現はなさいませんが)、この期待に沿うようなメシアではないのだということです。これで今までの問答は終ります。46節です。彼らの理解をはるかに越えたメシア、それが主イエスです。私達は、この、今も共にいて下さる主イエスに従いましょう。