これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年5月2日「だが、あなたがたは」(マタイによる福音書23章1~13節)

 この福音書では、最も大切な教えとして、最初の方に山上の説教があります(5~7章)。それと対をなして、今日の箇所から3章(23~25章)、若干の例外はありますが、主イエスが語られます。前回、もはや論争が終りました。そしてこの主イエスの教えの言葉の後には、再び、主イエスを殺す計画の話になります。
 今日からはじまる箇所は、伝道のはじめの頃である山上の説教とは対照的に、とても厳しい言葉でもあります。逮捕、十字架までもうあまり時間がありません。厳しく諭すしかないのです。
 次回の(実は今日の箇所最後の節も)律法学者たちとファリサイ派の人々の不幸を語る前に、主イエスはまず前提として、彼らの問題点を指摘します。そして「だが、あなたがたは」そうであってはならないと、仰います。彼らは当時、高く評価されていました。最も大切な律法の専門家であり、また律法を守って生きるために、普通の生活を捨てて、一般の人々から距離を置いた生き方をする人々だからです。しかし主イエスは彼らの問題点を見抜いていました。それは、「言うだけで、実行しない」ことであり、「人に見せるため」に行っていることです。更には、上座・上席を好み、「先生」とか「父」と呼ばれることを好みます。
 そのことの何が問題なのでしょうか。キリスト者共同体(教会)においては、父なる神とイエス・キリストだけが特別なのであって、私達それ以外のものは、皆、兄弟・姉妹です。そして、神の眼差しにおいて喜ばれることだけを望み、人間の評価は二次的なものにすぎません。この一番根本的な所で間違えてしまうと、全てがおかしくなってしまいます。だから主イエスは勧めます。11・12節です。私達は、互いに仕え合う共同体でありましょう。