これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年5月9日「偽善者の不幸」(マタイによる福音書23章13~24節)

 前回申し上げましたように、この3章(23~25章)は、山上の説教(5~7章)に対応するものです。決定的に異なるのは、山上の説教が「幸い」を語っていたのに対しまして、今回は「不幸」が語られています。それは、時間の流れとして、今回は主イエスの宣教の最後だからでしょう。主イエスは真剣に天の国(神の国)の福音を語ってこられました。しかし、人々に主イエスの福音は(特に律法学者とファリサイ派の人々には)届きませんでした。だから、幸いではなくて不幸を語るしかありません。
 中身をみていきましょう。まず第一に、これは嘆きの言葉、「ウーアイ」です。遠く離れた高みから見下ろして、「不幸だ」と宣言しておられるのではありません。すぐ傍で嘆きます。手を差し伸べて、御国に招きつつ、嘆きます。彼らの何が問題なのかといえば、それは偽善者だということです。前回みたように、神の眼差しに生きるのではなくて、人々に自分がどう見えるかが全てになってしまっています。神の評価が全てであるはずなのに、人々に映る自分、人々の評価が全てになっています。だから、人々を神の国から遠ざけますし、「誓い」について間違った教えをします。普通は気にしないようなところまで、十分の一を献げることに意を用いつつ、「最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろに」してしまいます。
 彼らの偽善の最も大きな特徴が、盲目であること(16、17、19、24節)です。見えないのだから、人々を正しく導くことはできません。ぶよを漉してもらくだを飲み込みます。「偽善」を厳密に考えれば、「見えない」のは、「偽善」ではないでしょう。偽善であることにすら、気づくことはできないのですから。しかし彼らの偽善はそのような偽善です。自分たちも気が付いていません。気が付かないから、主イエスの下さる無償の恵みにくることもありません。私達はどうでしょうか。キリスト者として生きることが当たり前になって、彼らと同じ不幸に陥っていないでしょうか。自分自身を振り返ってみましょう。