これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年5月16日「外側と内側と」(マタイによる福音書23章25~36節)

 今回も前回に続いて、「不幸」が語られています。この「ウーアイ」という言葉は、何回でも繰り返し述べますが、嘆きの言葉です。遠く離れた高みから見下ろして、「不幸だ」と宣言しておられるのではありません。すぐ傍で嘆きます。手を差し伸べて、御国に招きつつ、嘆き、悲しみ、痛み、苦しみます。前回は、この箇所で問題になっている「偽善」は、自分でも「偽善」に気づかないほどの深い偽善なのだということをみました。
 今日はそれが更に掘り下げられていきます。最初は、杯や皿の外側と内側です。25・26節です。今までの文脈通り、外側はきれいにするが内側は悪いもの(強欲と放縦)で満ちています。外側と内側が意味するもの、それは、他者がみて見えるものと見えないものです。神は全てを見通される方ですから、外側も内側も見抜いておられます。しかし人間には、内側は見えません。だから、本当に大切な神の眼差しを忘れて、この世界だけに心を配るならば、外側だけはきれいにしても内側は汚いままになります。
 次の白い墓の例えも同じです。27・28節です。当時、お墓は不浄なもの、汚いものと考えられていましたので、過越の祭の前(丁度主イエスがこの箇所を語っておられる時です)には、墓を白く塗って、間違えて近づかないようにしていたそうです。(日本の神道との類似点と相違点について)。だから、外側は白く、美しく塗られているけれども、内側は偽善と不法で満ちています。
 私達は今回も、これを他人事(律法学者とファリサイ派の人々だけの問題)と読むことはできません。ある説教者は、大胆にも、教会は「偽善者をうみだすところ」だと述べました。確かに教会は、「救われている私」という事実に基づいて、内側の光が溢れ出るようにして善い行いになることも多いでしょう。しかし外側(見た目)だけを真似すれば、偽善が生まれます。そのような私達の偽善の罪も含めて、十字架に滅ぼして下さった主イエスに従っていきましょう。