これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年5月30日「主イエスの嘆き」(マタイによる福音書23章29~39節)

 前回ペンテコステで別の聖書箇所を読みましたが、今日はマタイの講解説教に戻ります。今日の聖書箇所前半(36節まで)は、前回も読みました。しかし、説教では主に28節までをみましたので、36節まで今一度読みます。この箇所は、律法学者とファリサイ派の人々に対する「不幸だ」の最後の箇所です。しかしなぜ、預言者の…(29節後半~30節)ことが、自ら証明する(31節)ことになるのでしょうか。普通は、先祖の過ちを自分たちが繰り返さないためにこうしたことをするものです。そして事実、彼らはそういう心づもりでいることでしょう。しかし、この後に起こる出来事は、主イエスの十字架です。主イエスが仰る通り、「先祖が始めた悪事の仕上げを」(32節)することになります。ちなみにアベルからゼカルヤ(父親の名前は間違っているようですが)までは、旧約聖書で、最初に殺された人物から、最後に殺された人物まで、ということです。
 そしてこの箇所全体の締めくくりとして、37~39節です。めん鳥と雛の例えは、主イエスが発案したものではありません。当時既に、ユダヤ教で用いられていました。自分たち神の民イスラエルは、神というめん鳥の羽の下に憩うのだという比喩が用いていました。主イエスはこの例えを自分自身の宣教活動に用いました。いわば、ご自身の宣教活動の総括として、失敗したことを認めます。
 ただしそれで全てではありません。今一度39節です。主イエスは、神の子であられるにもかかわらず、十字架に殺されます。この主イエスを見るためには、主イエスに祝福があるように、願い求めることが必要です。そこではじめて、「不幸(災い)だ」は、「幸いだ」に変わります。私達は、不幸を生きる者ではなくて、幸いを生きる者でありましょう。