これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年7月18日「タラントンの例え」(マタイによる福音書25章14~30節)

 再臨・終末へ向けての三つの例えの、今日は三番目、最後です。一つ目が、「まだまだ来ない」と思い込んで犯す過ちを、二つ目が、「すぐに来る」と思い込んで犯す過ちを、諭していました。今日の例えは、文脈は離れて記憶されていることが多い例えです。実際ルカによる福音書の「ムナの例え」は全く違う文脈で語られています。
 それは、自分の財産を預けて旅行に出る主人の話です。14・15節です。「それぞれの力に応じて」であって、そこに差別や贔屓はありません。それぞれどうしたのでしょうか。16~18節です。まず注目すべきは、5タラントンと2タラントンの者が全く同じようにしていることです。主人の帰って来たときの扱いも全く一緒です。19~23節です。私達がこの世界でどのような才能や状況を神から与えられているとしても、私達の能力に応じて神は与えてくださっています。それを見失うところで、私達はひがんだりいじけたりして、自分の用いるべきタラントンを用いない罪を犯します。
 最後の1タラントンを任せられた僕が、もしかすると、そのような罪を犯しているのかもしれません。24~30節です。三人とも、預った額は異なっていても、「主人と一緒に喜んでくれ」という喜びへと招かれているはずでした。勿論、増やそうとして失敗した人物などもこの例えに出てくれば分かりやすくはなります。しかし恐らくは、私達が神から預けられたものの運用では失敗はないということでしょう。ただタラントン、神から預ったものを用いないで土に埋めてしまうという失敗だけがあります。
 この例えは、何を語っているのでしょう。確かに、私達が神から預ったものを土に埋めてしまってはならないという教えでもあるでしょう。しかしそれは、「そんなことをしていては外の暗闇に追い出されるから気を付けろ」という脅しではないでしょう。むしろ、天国へと・主人と一緒に喜ぶ世界へとあなたも招かれている、その招きに応えるように勧めています。それどころか、主イエスの十字架は、土に埋めるしかない私達の罪を赦して、5タラントンや2タラントンの僕のように、喜んで生きる世界への招きなのです。