これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年8月8日「記念として」(マタイによる福音書26章1~13節)

 前回で、3章に及ぶ最後の説教が終りました。今日の箇所から、一直線に十字架へ向かいます。その最初にあるのが、今日の記事です。この箇所は二つの部分からなります。前半では、権力者たちが主イエスを殺す計画を建てています立てています。後半では、対照的に一人の女が出てきます。
 両者に共通しているのは、自分たちが何をしようとしているのか、何をしているのか、分からないことです。主イエスを殺そうとしながら、それが神の子を殺すことなのだと分からない権力者たち。極めて高価な香油を注ぎながら、その意味を知らない女。
 まず権力者たちの企みをみましょう。3~5節です。祭りの間は騒ぎになるといけないからやめておこうと彼らは計画します。しかしそれさえも、神の・主イエスの計画とは異なり、主イエスの逮捕・引き渡しはもっと早くなります。1・2節です。過越祭に、ただ一度限りのいけにえの小羊となるために、主イエスは死にます・殺されます。彼らの計画通りにはいきません。
 後半の香油を注ぐ女については、既に様々なことを皆さん聞いてこられたと思います。弟子たちの非難に対して、主イエスは女をかばいます。10~13節です。女は、自分のしたことの意味が分からないで困っています。しかし主イエスはこの女のしたことを(常識的には無駄遣いであることを)「良いことをしてくれた」と、高く評価します。そればかりか、福音が宣べ伝えられる所では、記念として語り伝えられるとまで、仰います。なぜなら、女は(自分でもその意味は分からずに)葬りの備えをしたからです。そして今も、私達は(毎週というわけではありませんが)この女のしたことを記念として語り伝えております。
 私達が行動するとき、いつもその行動の意味を十分に分かっているわけではないでしょう。しかし、主イエスへの愛によって行動するとき、それは「記念として」語り伝えられるほどに主イエスは高く評価してくださるのです。