これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年8月22日「主の晩餐」(マタイによる福音書26章26~30節)

 今日の聖書箇所がはじまる時点で、既に過越の食事ははじまっています。過越の食事の中で、主イエスは、主の晩餐・聖餐の制定をなさいました。私達は、聖餐の制定が、全く文脈のない無機質な提議のようにしてなされたのではないことに注目しましょう。しかもそれは、たった12人の中心となる弟子たちの中に裏切る者、イスカリオテのユダもいたのです。
 まずパンです。26節です。果たして聖餐で用いられるパン(と杯)は、本当にキリストのからだ(と血)なのかということが、特にプロテスタント諸派で議論されていました。ルター派の共在説、改革派・カルヴァン派の臨在説、ツヴィングリ派の象徴説です。プロテスタント諸派が、バラバラなのはよくない、一つになろうとしたときに、どうしてもお互いに妥協できなかったのがこの点であり、一致することができませんでした。[日本基督教団の成立について。現代の傾向について。]
 ただいずれの立場であれ大切なことは、主イエスご自身が、「わたしの体である」と宣言しておられる事実です。私達は聖餐式を単なる儀式として行うのではなくて、主イエスの体を味わうという厳粛な思いをもって聖餐に与ることが大切です。
 いま一つは杯です。27~29節です。三つのことを申し上げます。まず第一に、主イエスの体と血だけれども、私達の行う主の晩餐・聖餐の場に主イエスは(聖霊においてはおられるとしても実体としては)おられないということです。主イエスはこの聖餐に与ることはありません。それが「飲むことは決してあるまい」の意味です。第二に、契約の血であることです。ここには、まだ契約していない者をも巻き込むような発想はそもそもありません。主イエスとの契約があってはじめて、聖餐は意味をもちます。洗礼でただ一度限り結んだ契約を繰り返し確認し、原点に立ち返る意味が聖餐にはあります。第三に(最後に)ここには、主イエスの約束があります。今はまだ、再臨の前なので、ここに主イエスはおられません。しかし、主イエスが再び来てくださって(再臨)、私達は主イエスの父の国(神の国)で新たに主イエスと共に飲むことが約束されています。
 一同は讃美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけました(30節)。ここで主イエスは逮捕されます。逮捕・十字架・復活の前に主イエスが私達信じる者たちのために約束してくださったことを大切にしましょう。