これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年9月5日「ゲツセマネの祈り」(マタイによる福音書26章36~46節)

 今日はいよいよゲツセマネの祈りです。前回、オリーブ山へ行く途中、主イエスはぺトロを中心に弟子たちがつまずくことを予告なさいました。そして次回、裏切られ逮捕されるのですが、その前に主イエスは実に真剣な祈りをなさいます。それがこのゲツセマネの祈りです。
 まず、最初の祈り、36~39節です。三つのことだけに今日は注目しましょう。まず第一に、主イエスは本当に「悲しみもだえ」ました。主イエスは、神が一時的に人間の姿になったというのではなくて、真実に神であられるのと同時に真実に人間です。二千年の間、様々に形を変えて両方の異端(神でない、人間でないという)が起こりました。しかしそれらを退けて、教会は成長・形成してきました。悲しみもだえるほどに、主イエスは人間であられました。第二に、(第一のこととも関連して)主イエスは「この杯(十字架のこと)を私から過ぎ去らせてください」と祈ります。ソクラテスが冷静に毒を飲んだのと異なり、主イエスは真実に苦しみ、真実に十字架の回避を祈ります。なぜなら、十字架は、神に見捨てられる事柄だからです。そして第三に、最後には「御心のままに」と祈っておられることです。時々「結局最後は御心のままにと祈るのだから、最初からそう祈っておけばよいのだ」という方がおられます。それは諦めの祈りにしかなりません。祈りにおいて、ここで主イエスがしておられるように、神との真剣な格闘としての祈りがあってはじめて、「御心のままに」へと導かれるのです。
 主イエスは、眠ってしまう弟子たちを嘆きつつ、三度祈ります。40~44節です。「わずか一時も」と主イエスは仰いますが、これは短い時間ではなくて、日本の江戸時代と似ていて二時間ほどのことだそうです。疲れ果てていた弟子たちが眠ってしまうのも無理はないのかどうか、微妙な所です。二度目には主イエスは弟子たちを起しません。「心は燃えても肉体は弱い」とは、神へと向かう心は燃えていても、罪・悪へと向かう「肉」においては私達は弱いということです。弱い私達が、それでも神に従うことができるように、主イエスはこれから私達の罪を全て背負って十字架に死んでくださいます。