これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年9月12日「主イエスの逮捕」(マタイによる福音書26章47~56節)

 ゲツセマネの祈りの最後に主イエスは仰います。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。確かに、主イエスの言葉の途中で、ユダが大勢の群衆と共にやってきます。47節です。ここでもユダが「十二人の一人」と書かれています。ユダは前もって決めておいた通りに、接吻で裏切り、主イエスは逮捕されます。48~50節です。主イエスは静かに逮捕されます。しかし一緒にいた弟子の一人が手下の耳を切り落とします(ヨハネ福音書ではぺトロと同定)。51節です。ルカ福音書では、すかさず主イエスがこの耳を癒しますが、マタイにはそういう記述はありません。
 このときの主イエスの言葉から、三つの点だけをみましょう。52~56節です。まず第一に「剣を取る者は…」の部分です。私はこの主イエスの言葉は真実だと思います。確かに一時的には、剣が勝利することもあるでしょう。しかし神の意志が争いではなくて平和なのですから、剣は最終的に勝利しないし、剣を取る者は滅びるより他ありません(特に終末を見据えるならばなおさら)。
 第二に、なぜ主イエスは素直に逮捕されるのでしょうか。天の軍勢を用いて、逃げることはおろか、勝利することさえもできるのに、です。それは、聖書の言葉、預言者たちの書いた言葉が実現するため、すなわち神の御心(前回のゲツセマネ参照)がなるためです。主イエスが十字架に死んで、私達の罪を全て帳消しにする、そこにこそ神の愛が最もはっきりと現れます。
 第三に、主イエスの素直さ・まっすぐさとは対照的な、当時の権力者たちから派遣された群衆の姿があります。主イエスが神殿で教えておられるとき、いつでも彼らは主イエスを捕らえることができました。しかし主イエスに味方する群衆を恐れて、捕らえませんでした。夜陰に乗じてしかできなかった、ここに彼らの卑怯さが極まっています。
 最後に、弟子たちは、主イエスを見捨てて逃げてしまいます。私達はこの弟子たちに私達を重ね合わせて、十字架の主に従うよりほかありません。