これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年10月24日「十字架につけろ」(マタイによる福音書27章15~26節)

 今日の聖書箇所は、前回の続きで、ピラトから死刑の判決を受けます。ポイントは幾つもありまして、例えばピラトの妻が見た夢(19節)や、祭司長たちや長老たち(の妬み)、また、バラバのこと。更に大きなこととして、正義を行うべき立場にあるピラトが死刑の判決をくだしてしまうこと(それで使徒信条に名前が残り、未だに覚えられてしまうのですが)などです。しかし今日は、群衆に目を止めて、群衆に集中してこの箇所をみたいと思います。
 主イエスが弟子たちと共にエルサレムに入城しました時には、群衆は大歓声で迎えました。しかし今日の箇所では、「十字架につけろ」と言います。一説には、この二ヶ所の群衆は、異なる二つの群衆です。つまり主イエスが入城なさったときの群衆は、主イエスの逮捕と共に閉じこもってしまって、宗教的指導者たちの言いなりになる群衆がここでは集まっているというのです。確かにそのように読むこともできます。しかし、私は同じ群衆だと思います。なぜなら、主イエスに(武力革命を)期待していた群衆は、主イエスが逮捕されてしまい、無抵抗であることに失望して、宗教的指導者たちの説得(20節)に応じたのではないでしょうか。大きな期待があったからこそ、失望も大きかったのです。
 民は、「その血の責任は、我々と子孫にある」(25節)とまで言ってしまいます。しかしだからといって、神の子、キリストを殺した責任がユダヤ人(神の民、イスラエル)だけにあるとは言えません。最終的な死刑の判断をしたのは、主イエスにそのような罪があると思っていないにも関わらず、「騒動が起こ」(24節)るのを恐れて死刑判決を下したピラト(彼は異邦人を代表しています)です。
 ユダヤ人にも異邦人にも主イエスを殺した罪はあります。そしてその中で、群衆が大きな役割をにないます。ユダヤ人虐殺を行った首謀者はヒトラーですが、群集心理を研究して、演説を中心として群衆に影響を与え、群衆を動かすという仕方で、あれらの暴挙はなされました。
 そういう事柄に、私達は無関係でしょうか。そうではないと思います。戦争や軍事ということだけではなくて、私達は、「群衆」として、主イエスを「十字架につけろ」と叫びます。そして、そのような私達のためにこそ、主イエスは死んでくださいました。