これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年2月12日「誰の信仰か」マルコによる福音書2章1~12節

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 今日から2章に入ります。今日の箇所は、この福音書で五つ目の癒しであると共に、このあと五つ続く論争の一つ目になります。1章と2章を結んでいます。4節までが状況説明です。当時の家屋は平屋一部屋が普通で、外階段があって、屋上も様々な事に使っていました。また屋根も、雨期の前に吹きかえます。だから私達が想像するよりは、屋根をはがして穴をあけるのは、困難な事ではありません。それでも、かなり大胆なことです。想像してみて下さい…。ザアカイ(ルカ19章)を思い起こさせるような必死さがこの四人にはあります。この四人と、中風の人の関係は分かりませんが、「何とかしてあげたい」という強い想い・愛があります。そして主イエスは、この四人の信仰をみました。5節。この箇所ではじめて、信仰が名詞で出てくるのですが、今までの流れからすると、主イエスは奇妙な事を言っておられるのではないでしょうか。四人の願いは恐らく「癒し」であって、主イエスの宣言なさった「罪の赦し」ではありません。しかし主イエスは罪の赦しを宣言なさる。決して因果応報ではありません(ヨハネ9章以下参照)が、この中風の人の一番根底にある問題は、罪の問題なのだと主イエスは分かっておられます。この人にとって一番大切な・必要な事は(本人にはまだ分からなくても)罪の赦しです。しかし次の数人の律法学者との対話(?)をみると、この「罪の赦し」がいかに難しく大きな問題であるかが分かります。6~10節前半。律法学者の人々の疑念はある意味で尤もです。主イエスが神(の子)であられなければ、その通り「神を冒涜」することです。しかし教会もまたキリストのからだとして罪の赦しを宣言するように、主イエスの権威として、罪を赦すことがあります。そして癒しの業があります。10節後半から12節。主イエスは中風の人の信仰ではなくて、彼を連れてきた四人の男の必死の信仰をみました。私達もまた「とりなし」の可能性を身近な不信仰の人々のために祈りましょう。