これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2023年3月26日「マリアの賛歌」(ルカによる福音書1章46~56節)

 前回、マリアはエリサベトを訪問しました。そしてエリサベトのお腹の子(洗礼者ヨハネ)が喜び踊ります。エリサベトの「なんと幸いでしょう」という言葉に応えるようにして、マリアは神をほめたたえる賛歌を歌います。中身を全てみていくことはできません。例えばルターがこのマリアの賛歌についてだけで一冊の本を書いたように、実に豊かな内容の歌であります。また、このマリアの賛歌の背景には、明らかに旧約聖書の言葉がちりばめられているのですけれども、それを一つ一つ丁寧に掘り下げることも、今日は致しません。
 この賛歌を幾つかに区切って、大まかにその内容をみていきましょう。まず46~49節前半です。ここでは、神がマリアにしてくれたこと、そしてそれゆえにマリアが今、喜んで神をほめたたえていることが描かれています。それは、主イエスの母となるマリアだけの出来事ではなくて、主イエスと出会い、生き方を変えて頂いた私達全ての者の賛美の歌です。こんな私にも神は目を留めてくださった、この事実から私達は喜びの歌を歌い続けます。
 このような偉大な業をしてくださった方がどのような方であり、これからどのようにしてくださるかを続けてマリアは歌っています。49節後半~53節です。この部分を中心として、マリアの賛歌は、別名革命の歌ともいわれます。現在の歪んだ秩序が全てひっくり返されて、新しい秩序、神の秩序が成立することを語っているからです。武力や権力を振りかざす独裁者の治める世界ではなくて、主を畏れる者に及ぶ憐れみが全てを支配します。神はこの憐れみを忘れず、アブラハムとその子孫(私達教会)に対してとこしえに受け入れてくださいます。54・55節です。マリアがこの三カ月の滞在の間に何があったのか、これ以上詳しいことはルカは描きません。56節です。この賛歌さえきちんと描けば、それで十分だと思ったのでしょう。私達もマリアと共に、神を喜びたたえ続けましょう。

2023年3月19日「なんと幸いでしょう」(ルカによる福音書1章39~45節)

 前回は、マリアに対して天使ガブリエルが主イエス誕生の予告をする箇所でした。次回はかの有名なマリアの賛歌です。その間に挟まれて、マリアがエリサベトを訪れたことが記されています。39・40節です。マリアはガブリエルから、エリサベトの妊娠の話を聞きました。36節です。それでマリアはエリサベトを訪ねたのでしょう。
 マリアの挨拶を受けて、エリサベトの胎内の子、ヨセフが動きます。41節前半です。そしてエリサベトが聖霊に満たされて、声高らかに語った言葉の最後が今日の説教題です。41節後半~45節です。「主がおっしゃったことは必ず実現する」とマリアが信じたから幸いなのだと、エリサベトは言います。これは突然マリアが信じたのではなくて、ガブリエルの言葉に対する応答です。ガブリエルは言いました、37節です。神にはできないことは何もないのだから、神の言葉は必ず実現します。信仰において当然のことです。しかし私達愚かな人間が信じるのは、なかなか難しいことです。例えば、アブラハムサライなどです。旧約聖書にみられる神の将来を表現する過去形のことを思い起こしてください。
 そして、このことは、私達の信仰の核心の一つでもあります。神がおっしゃったことは必ず実現する。私達もそう告白しつつ、信仰生活・教会生活を送りましょう。

2023年3月12日「お言葉通り」(ルカによる福音書1章26~38節)

 ルカによる福音書の講解説教も今日で四回目です。今日の箇所は、イエスの誕生がマリアに予告される箇所です。この箇所とよく対比されますのは、ザカリアへの洗礼者ヨハネの誕生の予告です。そこでザカリアは、天使ガブリエルの予告を受け入れなかったので、口が聞けなくなり、マリアは受け入れたので、祝福されたといいます。しかし果たしてそうなのでしょうか。18節でザカリアが言い逆らったのと全く同じに、マリアも34節で言い逆らっています。34節です。しかしその後に天使は更に語ります35~37節です。そしてマリアが「お言葉通り」という有名な言葉を述べて、天使は去っていきます。ザカリアは、マリアで言いますと、35節からの天使の言葉が語られる位置で、口が利けなくなることを告知されます。ザカリアがどうだからマリアがどうだからということではなくて、天使・神の側にご計画があってこうなったとみるべきではないでしょうか。既にみたように、ザカリアの沈黙には必要な意味がありました。それと同じように、マリアがこのガブリエルの告知を「お言葉通り」と受け止めたのも、救済史において必要なことです。38節です。これは、単に当時の田舎娘にすぎないマリアにとっては大変なことでした。年齢は分かりませんが、当時の常識からいえば12歳くらいだったのではないかと推定されています。
 まず最初に、マリアは最初の天使ガブリエルの言葉から戸惑い考え込みます。26~29節です。この挨拶の言葉は当時の普通の挨拶の言葉ですが、それ以上に字句通りの深い意味があるでしょう。そしてザカリアの箇所で、ザカリアを通して私達の沈黙の意味を読み取ったように、マリアの箇所から私達は、「お言葉通り」と神の言葉を受け入れるところからはじまる私達の歩みを見つめることができます。

2023年3月5日「私の恥を取り去って」(ルカによる福音書1章21~25節)

 ルカによる福音書の講解説教も今日で三回目です。まず素直に前回の続きの箇所です。21・22節です。ここで人々はザカリアが幻をみたのだと悟ります。こういう感性は私達には欠けているのではないでしょうか。幻といいますと、現代においては否定的に捉えられることが多いと思いますが、かつてはそうではありませんでした。例えば、私達はビジョン協議会をもちますが、このビジョンは、幻です。私達の理性では関知できないけれども、神様が与えてくださり、私達が理解できる、そういう将来が幻で示されます。
 次に後半をみましょう。23~25節です。この箇所で最も大切なポイントは、「私の恥を取り去ってくださったという箇所でしょう。その前に、なぜ彼女は五カ月の間身を隠していたのかなどもポイントです。かなり高齢であったので、妊娠初期の流産の可能性を考えていたなどの可能性があるのてしょう。
 そして恥を取り去ってくださった。それは、一番素直にいうと、ラケルがヨセフをみごもったときのように、神が目を止めて恵みを与えてくださったということです。現代においては、多様な価値が認められて、子どもを産まないから、直ちにマイナスだという評価にはならないでしょう。尤も古代に比べれば小さいとはいえ、やはり子どもを産むことは、大きな要素でもあります。
 しかしこの「私の恥を取り去って」は、単に子どもを授かったことだけではなくて、それが救済史の中で大きな出来事であったことがあります。私達が皆そのような恵みにあずかるわけではありません。しかし、主は「私の恥を取り去ってくださった」と告白できるような歩みを私達一人ひとりに備えてくださるのだと私達は神に信頼してよいのです。

2023年2月26日「ヨハネ誕生の予告」(ルカによる福音書1章5~20節)

 先週(前回)から、ルカによる福音書を読み始めました。他の福音書とは異なり、ルカによる福音書は、主イエス以前のこともそれなりに描いています。今日の箇所はまだそういう箇所の一つで、洗礼者ヨハネの父親、ザカリアに主の天使が現れて、ヨハネの誕生を告げます。まず、11・12節です。神や主の天使の顕現では、この恐怖・恐れこそが際だった特徴です。だからこそ、「恐れることはない」という言葉が神顕現のしるしです。13節です。ザカリアは恐れに包まれました。しかし祭司として、特別な主の聖所で、主の天使が現れてなぜ恐れるのでしょう。そこでは、日々当たり前に聖なる儀式が行われていました。それは普段、誰にも邪魔されることなく、いつもの手順通りに行われていたことでしょう。それを主の使いが邪魔をします。私達の礼拝は、信仰生活は、そのように、主の使いが邪魔に入っても喜んでそれを受け入れることができる開かれたものになっているでしょうか。願わくは、そうであることを願います。
 ザカリアはそうではありませんでした。それで、洗礼者ヨハネは、ザカリア夫妻のもとに生まれないのでしょうか。そうではありません。ただ、実現までの間、口を利くことができなくされます。19・20節です。信じなかったとしても、救いからもれるとか、神の計画が変わるということはありませんでした。ただ口が利けなくなります。何カ月も口が利けないのですから、これは大変なことです。しかしそれだけで、神は彼ら夫婦をゆるします。沈黙が、私達の信仰においてなぜ大切なのかといえば、神の言葉をきちんと聴くためです。私達は必要な沈黙や必要な信仰をもって、神の呼びかけに応えていきましょう。

2023年2月19日「献呈の言葉」(ルカによる福音書1章1~4節)

 今日からどれだけの月日がかかるか分かりませんが、ルカによる福音書を読み始めました。この福音書を読みはじめてすぐに気が付く特徴は、今日の箇所です。献呈の言葉が(他の福音書とは違って)あります。
 3節です。このテオフィロというのがどんな人物なのか、よく分かりません。様々な推測がされておりますが、分かりません。歴史書などに一切でてきません。ただ、書物を献呈するのですから、身分の高い人物であったのは確かでしょう。そしてこの人物、テオフィロが、既に教会・キリスト教の教えに触れていて、しかも、まだ、信ずるには至っていないことが、4節から分かります。教えが確実なものであることが分かるために必要なことは何か。最近はよく「エビデンス」ということがいわれます。事実、ネット上のデマに踊らされて拡散してしまう人々や、犯罪になってしまうような行動に走る人々も現れていますから、きちんと根拠を確かめることは大切です(ロシアのプロパガンダなどをみれば、「ヒト」が流す情報を鵜呑みにすることがどれだけ危険なことか、よく分かります)。しかしルカは、福音書を書くにあたって、エビデンスを大切にするのではなくて、順序正しく物語を書くことにしました。
 ルカ以前にもそういう努力はありました。1・2節です。多くの人々が手を着けているのに、なぜ恐らくは第一世代ではないルカも物語を書くべきだと思ったのでしょうか。ルカにはルカの信仰があります。そしてそれを自分で物語ることで、テオフィロに信仰・福音の確かさを掴んで欲しいと考えたのでしょう。
 理屈や理論では伝わらない真実があります。物語という仕方でしか伝わらないものがあります。私達もこの福音書を読んでいくことで、この物語を再び紡いでいきましょう。

2023年2月12日「平和と信仰を伴う愛」(エフェソの信徒への手紙6章21~24節)

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 しばらく共に読んできましたエフェソの信徒への手紙も、今日で終ります。次回からルカによる福音書の講解説教です。今日の聖書箇所は、結びの言葉、最後の挨拶の言葉です。前半は、ティキコを送ることについてです。21・22節です。パウロがこの手紙を書いたのだとすると、自分の代わりにティキコを送って、人々を励まそうとしたのだということです。またパウロの弟子たちの誰かが書いたのだとすると、パウロが様々な手紙でしているのを真似して、こういうことを書いたのだということでしょう。いずれにせよ、現代のような交通手段(飛行機や電車など)もなく、通信手段もない時代ですから、自分の代わりに信頼できる人を送るというのは普通のことでした。
 次が本当に最後の挨拶です。23・24節です。説教題を決めてから大分経って、この題だと誤解があるかもしれないと思いました。ここは、平和と愛があるように、と語っています。そして愛を修飾する言葉として「信仰を伴う」があります。平和と信仰、この二つが伴う、愛、ではありません。また伴うというのは、別の訳し方をすると、信仰によってもたらされるとも捉えることができます。私達人間の愛は、いつだって不完全です。神のように愛することはできません。ただ信仰によって、私達の愛は、優れたものになっていきます。それは、私達人間からのものではありません。「父である神は主イエス・キリストから」のものです。そうして私達は、「恵みがあるように」と祈ります。