これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2023年2月5日「光が世に来た」(ヨハネ福音書3章16~21節)

 今日は聖書箇所をこの箇所にするか、エフェソの信徒への手紙講解説教を続ける(といっても後一回で終わりですが)か、迷いました。というのも、国民の休日に定められている建国記念の日を私達教会は、「信教の自由を守る日」と呼んでいるのですが、来週、私達はこの日を覚えて礼拝後に祈祷会を致します。それだから、土曜日にこの日を含む今週か、それとも祈祷会をする今度の日曜日がよいか迷いました。しかし当日が過ぎてからというのもいかがなものかということで、今日この箇所から語ることと致しました。
 この箇所の最初は、聖餐式のときに毎回読んでいる箇所ですから、聞き覚えのある方も多いのではないでしょうか。16・17節です。神が御子を世に遣わされた理由が描かれています。それは、神が世を愛され、(裁くためではなくて)救うためです。
 そしてここに、とてもヨハネ的な、現在における救いと裁きとが語られます。18節です。将来最後の審判のときに、というのではなくて、今既に、信仰の有無によって裁きは行われてしまっているといいます。その裁きがどのようなものであるのか。19節です。せっかく光が世に来たのに、光よりも闇を好む、これが既に裁きになっています。次に、20・21節です。光が来た現実の中で、悪を行うがゆえに、憎み恐れて光の方に来ない者たち。そしてそれとは対照的に、真理を行うので光に来る者たち。その行いが神に導かれてなされたことが明らかになるために。
 信教の自由を守る日は、中立公平にいえば、何を信じようと信仰する自由を認めるということです。それは、基本的人権の一つとして大切なことです。しかし裁きが上記のようであるとするならば、信教の自由がきちんと保証された世界で、私達自身が裁きではなくて救いを選びとる自由です。さあ私達は正しい選択をしましょう。

2023年1月29日「祈り続けなさい」(エフェソの信徒への手紙6章18~20節)

 前回にも申し上げましたように、前回(先週)と今日の箇所で一纏まりです。しかしながら、前回の神の武具を身に着けるという箇所も、今日の祈りの箇所もとても大切なので、二回に分けてみていきます。
 前回学んだ神の武具を身に着けることは、敵がこの世界の血肉ではなくて、サタンの策略でありました。そこで私達は、(攻撃であれ防御であれ)神の武具を身に着けてどんな戦いをするのでしょうか。その最初にすべきことが、祈ることです。18節です。前回、神の言葉は無力なものではなくて、力あるものだということをみました。祈りもまた、決して独り言などではなくて、力あるものです。それは私達が自分勝手に祈るのではなくて、霊に助けられて行うことです。自分たちのためだけに祈るのではなくて、すべての聖なる者たちのために祈ります。それは、「絶えず目を覚まして根気よく」あることが必要です。祈りは聞かれます。ただし、「直ちに」ではありません。エジプトでヘブライ人が祈ったとき、その祈りが聞かれるには、80年の歳月が必要でした。
 そして最後に、著者は、自分のためにも祈ってほしいと求めます。19・20節です。なぜなら、著者の戦いこそが、彼らの戦いの最前線だからです。福音の神秘が大胆に示されるところで、神の言葉の力は遺憾なく発揮されます。著者は「福音の使者として鎖につながれています」といいますが、それが何を意味するかは幾つかの可能性がありますが、いずれにせよ、鎖につながれていることがどうでもよいほどに、著者はただ語るべきことを大胆に話せるように願い、また手紙の読み手がそう祈ることを求めます。私達もまたこのことを求め、また祈り続けましょう。

2023年1月22日「神の言葉をとって」(エフェソの信徒への手紙6章10~17節)

 エフェソの信徒への手紙も終わりが近づいてきました。人間関係の教えが終って、今日の箇所は本来文脈としては、20節まで一纏まりなのですが、神の武具を身に付けることが語られている前半(今日)と祈りの大切さが語られている後半(次週)の二回に分けてみていきましょう。
 この手紙の著者は、11節と13節の二回、「神の武具を身に着けなさい」といいます。10~13節です。まず著者は、「最後に言う」と申します。この手紙がもうすぐ終ります。そして神の武具を身に着けるのは、悪魔の策略に対抗して立つためです。いかがわしい新興宗教がいうような、信者をこの世界の情報から遮断するための「サタンの策略」ではありません。だから12節に戦いの相手がはっきり描かれています。血肉ではないのです。「支配と権威…」です。戦争のシニカルな小話で、同じ神様に敵対する両者が勝利を願うというのがあります。それこそ、戦う相手が分かっていないのでしょう。
 次に14~17節で、神の武具とはどういうものであるか述べられています。真理、正義、平和の福音を告げる準備、救い、霊の剣すなわち神の言葉を具体的に一つひとつみていく必要はないでしょう。トータルでどういう姿勢であるべきかを捉えることが大切です。ここに描かれていることは、例えば神の言葉は霊の剣であるとか、胸当てとしての正義、盾としての信仰など、攻撃的な武具か防御的な武具かという位の把握でいいでしょう。全体的なイメージをきちんともちましょう。
 この世界で生きていくことは、「何となく」で戦えるような安易なものではなくて、激しく厳しい、神の武具がどうしても必要な戦いがあります。

2023年1月15日「人を分け隔てなさらない」(エフェソの信徒への手紙6章5~9節)

 人間関係に関する教え、今日が三つ目、最後です。まず一つ目が妻と夫、二つ目が子と親、今日が奴隷と主人です。三つに共通することは、社会的に優位な立場にある者がより厳しい戒めを与えられていることです。そしてさらに今日の箇所では、人を分け隔てなさらない方として、神への言及があります。
 みていきましょう。まず奴隷への勧めです。 5~ 7節です。うわべだけではなくて、喜んで仕えなさい。そして奴隷や主人という身分を越えた神理解が描かれています。 8節です。主から受ける報いについては、身分(奴隷か自由の身分の者か)に関係なく、善いことを行えば神は報いてくださいます。当時の身分制度の中で生きることが前提とされつつも、それを越えることが既に教えられています。
 次に主人たちへの教えです。 9節です。奴隷を平等に扱うべきこと、さらに(親が子どもを怒らせてはならないように)主人は奴隷を脅してはなりません。ここにあるのは、身分や立場の違いを越えた人間の対等さ、尊厳があるのではないでしょうか。その根拠は、天におられる主人が、人を分け隔てなさらないことです。私達人間は、私達人間のもつ弱さから、身分や立場、様々な条件によって人を分け隔てしてしまいます。しかし神は、分け隔てなさらない方です。そしてそのことが、私達が何とか可能な限り分け隔てしないで生きようとする根拠・動機・理由です。
 社会秩序や身分、立場などはこれからも変わりゆくでしょう。しかしながら神の眼差しにおいて、「人を分け隔てなさらない」神の眼差しにおいて、私達は生きていきます。

2023年1月1日「主の御名」(創世記16章13節)

 今日から新しい一年がはじまります。今日も、例年通り、ローズンゲンの年の聖句に聴きます。今年は例年と少し異なりまして、ハガルの言葉です。ハガルはサラの女奴隷です。アブラハムとサラとの間には、子どもがなかなかできませんでした。そこで、サラは、策略を巡らせます。当時、主人に跡継ぎがいない場合、家来の中で一番偉い者が後を継ぐしきたりでした。さらにこの頃には、自分の女奴隷に子どもを産ませて、その子どもを膝の上に抱くと、自分の子どもにできるという風習もありました(ヤコブの子どもたち、12部族の始まり参照)。だから、サラは女奴隷のハガルにアブラハムとの間に子どもを作らせて、取り上げてしまおうという作戦を立てました。このサラの罪は明らかです。神がどんなにアブラハムとサラが年老いても子どもを授けると約束しても(この子どもが約束の子ども、イサクです)、信じないで、策略を巡らせたことです。
 確かにアブラハムの約束は、約束の子どもイサクに引き継がれました(その子どもヤコブイスラエルという名前を与えられます)。しかしそれでは、女奴隷のハガルとその子ども(イサクの兄です)イシュマエルはどうなるのでしょうか。神は、このイシュマエルも新しい別の部族の父祖として立て、イスラエルの近隣の有力な部族となりました。
 今日の箇所は、子どもができて(妊娠して)、女主人のサラから不当な扱いを受けるようになったハガルが、サラの元を逃げ出したときの出来事です。幾つかの約束の言葉を与えられたハガルは、主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です」といいます。ここに表現されているのは、神が神の民イスラエルだけの神ではなくて、それ以外の人々にとっても神だということです。
 本来神は、全ての者の神です。主イエスがいらしてくださった(クリスマスにお祝いしましたように)ことによって、神が全ての人にとって、実は「わたしを顧みられる神」であることが明らかになりました。今日、はじまりましたこの一年、この神と共に生きましょう。最後にローズンゲンの言葉を紹介します。

2022年12月25日「固執しないで」(フィリピの信徒への手紙2章1~13節)

 クリスマスおめでとうございます。
 今年の聖書箇所は、とても有名なフィリピの2章です。キリスト・イエスが、神と等しい者であることに固執しないで、かえって自分を無にして、人間と同じ者になられました(6・7節前半です)。このキリストの姿を模範として、私達も同じ思いとなりなさい、という勧めです。1~5節です。パウロは、フィリピの教会の人々(私達)への勧めの言葉として、キリストに倣うことを勧めます。キリストは神の身分に固執しないで、人間の姿で現れてくださいました。だからこそ、神はこのキリストを高くあげられました。7節後半~11節です。今はまだ明らかではありませんが、終末の時には、このキリストの事実が全ての人に明らかになります。だから10・11節のように、「イエス・キリストは主である」と、神をたたえます。
 このことが、次の勧めに繋がっています。フィリピの教会は、パウロを経済的に支援するなど、特別にパウロと親しい関係にありました。だからパウロは、遠慮なく勧めるべきことを勧めます。12・13節です。従順であること、救いの達成に努めることが勧められています。これは神が一方的に私達を救ってくださることを否定しているのではありません。クリスマスの今日、私達がお祝いしているように、神は一方的にキリスト・イエスをくださいました。しかし私達がこの世界の何ものにも固執しないで(キリストが神の身分に固執しなかったように)、それゆえただ私達の与えられた救いに固執するとき、私達の救いは確かに実現します。今日、クリスマスに、私達は私達のの救いを喜び祝い、それゆえに不平や理屈に支配されるのではなくて(14節です)、喜びに満たされましょう。

2022年12月18日「エッサイの根」(イザヤ書11章1~10節)

 今日も聖書日課で聖書箇所を選びましたので、久しぶりに旧約聖書です。今日の箇所は、イザヤ書の中でも最もよく読まれる聖書箇所の一つです。ダビデの父、エッサイの子孫から王、救い主が現れるという預言です。1・2節です。この言葉を私達キリスト教会は、主イエス・キリストのことだと読みました。この方には、主の(神の)霊がとどまります、ダビデがそうであったように。そして公正な裁きを行います。3~5節です。私達普通の人間の限界は、目に見えるところ、耳にするところです。たとえ裁判官といえども、この点では私達市井の人間と全く同じです(だから、取り返しのつかない死刑制度は問題です)。まだ神の霊に満たされていたはずのダビデでさえ間違いを犯します。しかし主イエスはそうではありません。正当な裁きを行い、貧しい人を公平に弁護します。
 イザヤはそこまで語った後で、終末の様子を語ります。6~9節です。ここでは、弱肉強食のような自然法則は無視されています。それを問題視する方々もおられますが、神の全知全能を知っていれば、問題にはなりません。将来実現する事柄として、私達はこのような現実を思い描くことができます。
 今主の降臨を待つアドベントにあたって、私達は主イエスとこの終末の出来事をどのように結び付けて読むことができるのでしょう。やはり主イエスのご降誕(そして十字架と復活)によって、イザヤの描いたような終末は既にはじまっている、しかしその完成は再臨の時を待つのです。今日からはじまりましたアドベント最後の一週間、主が再び来てくださることを心待ちにしつつ、過ごしましょう。