これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年6月24日「裏切りと逮捕」(マルコによる福音書14章43~52節)

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 前回は、とても有名なゲツセマネの祈りであり、その意味を探りました。その祈りの後、主イエスがまだ話しておられると、ユダがやってきます。43・44節。ここでまず三つのことに注目しましょう。マルコ福音書記者は、くどい位「十二人の一人」を繰り返します。第二に、指導層三者が丁寧に繰り返され、また主イエスに迫るのは、「群衆」です。第三に、裏切るという言葉は、「引き渡す」です。人間的な悪と罪とが進んでいく中で、それでもなお、神のご計画通りに全てが展開していきます。
 ユダは計画通り、主イエスに接吻します。親愛の情を表す接吻が、裏切りに用いられます。逮捕の場面は実に短くあっさりしています。45~47節。大祭司の手下の耳が切り落とされた出来事は、話の流れにはあまり関係なく、突発的な事故のような描かれ方です(福音書間でその扱い方には違いがありますが、今日は触れません)。そして主イエスは仰います。48~49節。主イエスを捕らえる者たちの滑稽さが主イエスの言葉によって際立っています。弟子たちは、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出します。50節。
 最後の二節については、一つの伝説を紹介しておきましょう。51・52節。この若者は、最後の晩餐を行った家の息子であり、この福音書の著者だというものです。そしてこの家は、後の初代教会の大切な集会所の一つになります。ただ単に、弟子たちが逃げまどう中で、こういうことも起こるような混乱があったのだという描写に過ぎないと読むこともできますが、映画監督が自分の映画に少しだけ出るように、自分のことをマルコが書いたのだと読むことは、おもしろいことです。
 人々の滑稽なまでの混乱の中で、しかし主イエスお一人は落ち着いておられ、神の計画が静かに、しかし確実に進んでいきます。そして弟子たちが逃げ出してしまった現実は、私たちの信仰の弱さ・脆さ・儚さを描き、「私たちの信仰」ではなくて「主イエスの信仰」にこそ立つことの大切さを浮き彫りにします。さあ私たちは、「自分」ではなくて「主イエス」ゆえの確かさを生きましょう。

 

2018年6月17日「ゲツセマネの祈り」(マルコによる福音書14章32~42節)

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 前回は、オリーブ山へ向かう途中のできごとでした。今日はゲツセマネに着いて、とても有名なゲツセマネの祈りです。この祈りは、私たちの祈りの模範と言われますが、時々みかけるのは、「諦めの祈り」として捉えてしまう過ちです。そうではなくて、主イエスはここで、ヤボクの渡しでのヤコブの戦い(創世記37章23節以下)のように、戦っています。死という、神から切り離される現実、しかも木に架けられて殺される(イスラエルの考え方では最も呪われた)死です。主イエスは演劇の役者のように、神が台本を書いて演出する舞台を演じているのではありません。本当に苦しみ、本当に死にます。だから何とか避けたいのです。26節。全知全能の神に祈ります。しかしそのような自分の願いよりも、主イエスは「御心」を優先して祈ります。「御心」は、最初から諦めて祈る、諦めの祈りの入り口ではありません。私たちの祈りの戦いの最後にあるものです。
 そして第二に、主イエスは、私たちと同じように弱さを負われましたが、罪を犯されなかったので、ここには、主イエスの恐れ・苦しみ・悲しみがありますが、それは罪ではありません。33節後半~35節。生真面目な方は、それらの感情の動きを、神に全幅の信頼を寄せていないから起こるものであって、罪だと捉えます。確かにそういう面もあるでしょう。しかし必ず罪だということではありません。人間の自然な感情としてそういうものはあります。ただ大切なことは、三位一体の神と共にあること、そしてこの神に信頼を寄せることです。主イエスは、この神への信頼があります。だから、41節。自分の使命、飲まなければならない杯を--真剣な祈りの後に--受け入れます。私たちはここで眠ってしまった弟子たちと同じように、祈ることも神に信頼しきることもできません。しかしそんな私たちのために主イエスが十字架を担って下さったので、私たちもまた新しい神との関係へと(それゆえこの世界との新しい関係へと)招かれています。

2018年6月10日「つまずきと死を越えて」(マルコによる福音書14章27~31節)

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 前回、主イエスと十二人の弟子たちは、最後の晩餐の後、賛美の歌を歌ってから、オリーブ山に向かいました。次回はゲツセマネに着きますから、今日の聖書箇所は、その道の途中です。主イエスは(旧約)聖書に基づいて(ゼカリヤ13章7節)、弟子たちが皆つまずくことを予告します。27節。しかし主イエスの言葉はこれで終わりません。28節。ここには、慰めと励ましがあります。すぐにペトロが応えます。29節。ここにペトロの罪が既に現れています。「たとえみんなが…」。この発言には、他の十一人の弟子たちがどうであれ、自分は大丈夫だという自信が溢れています。いやもしかすると、前回の箇所から分かるように、自信がないからこそ、自分にも言い聞かせるようにして、語ったのかもしれません。このペトロの言葉を受けて、主イエスは更に丁寧に具体的に、ぺトロのことを語ります。30節。この章の最後に起こる現実を予言します。ペトロは更に言い張ります。31節前半。そしてこの「自分は大丈夫、死んでも付いていく」という傲慢の罪が、一番弟子のペトロだけのものではなくて、弟子たちに共通する罪であることが示されてこの箇所は終わります。31節後半。
 ここから今日、私たちは特に三つのことを聴きましょう。まず第一に、主イエスの気持ちです。もうすぐ殺されることが分かっています。しかもその時に今まで生活を共にして、共に旅から旅の生活をしてきた全ての弟子たちに見捨てられることもここで予告しましたように分かっておられます。ここにどれほどの孤独と悲しさ、そして絶望があることでしょうか。しかし第二に、主イエスは宣言なさいます。28節。弟子たちが主イエスを見捨てても、主イエスは弟子たちを見捨てないで、先にガリラヤへ行くと約束して下さいます。そして第三に、最後に、弟子たち・私たちの信仰の根拠がどこにあるのかということです。もしも私たちが自分の信仰の根拠を自分自身に置くならば、この弟子たちのようにそこにあるのは挫折です。主イエスが「先に」と約束して下さる。ここにこそ、弟子たち・私たちの信仰の根拠、つまずきと死を越えて成り立つ信仰があります。

2018年6月3日「契約の血」(マルコによる福音書14章22節~26節)

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 前回の聖書箇所では、最後の晩餐(それはまた最初の晩餐です)の席に、十三人の人々がいました。主イエスと十二人の弟子たちです。そこに裏切ったユダもいたことに私達は注目しました。主イエスの十字架は、蜘蛛の子を散らすように逃げた弟子たちばかりではなくて、ユダのためでもあるのだと捉えることができます。
 今日の箇所は、主の晩餐の制定です。22・23節。普通パンを裂くのは、前菜を別として食事の最初になされますが、マルコ福音書記者の記述では、食事の途中、あるいは最後の出来事です。私達の聖餐式とは異なり、主イエスがパンを裂いておられ、同じ杯から飲んでいます。今日特に注目したいのは、皆が杯から飲んだ後の主イエスの言葉です。24・25節。25節は、まずいつもの「はっきり言っておく(アーメン)」(主イエスが大事なことを語るときの決まり文句)と仰っています。「神の国で新たに飲むその日」がいつか、三つの読み方があります。一つ目は、復活の主イエスです。二つ目は、教会が誕生して聖餐を行うときです。三つ目は、再臨の後、新しい天と新しい地の与えられる時、神の国・天国が来る時です。どれも真実でしょう。
 更に、今日特に注目したいのは、主イエスが「多くの人のために流されるわたしの血」だけではなくて、それを「契約の血」と語っておられることです。「契約の血」と聞いて、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか。ドラマ・映画・小説など、物語の世界では、自分の手などを切って血を流し、その血で書いたりします(私は実際にそういう場面に遭遇したことはありません)。しかし旧約聖書の伝統には、動物の血を契約に用いることが普通で、そこには、「もしも私が契約を破るならば、私がこの動物のように引き裂かれてもかまわない」という意味が込められていました。洗礼を受けてキリスト者になるということは、このような主イエスとの契約、主イエスの血によって与えられた契約を生きる者にして頂くということです。

2015年5月27日「裏切る者も共に」(マルコによる福音書14章10~21節)

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 前回(先々週)の聖書箇所は、1・2節に殺害の計画があり、3節からナルドの香油でした。今日の箇所最初の10・11節は1・2節と共にその間の記事を挟み込むサンドイッチ構造です。主イエスを殺そうとする人間の企みに挟まれて、ナルドの香油の出来事・行為を際立たせています。今日の箇所から最後の晩餐、主の晩餐の出来事です。まず、聖餐を制定なさる前に、主イエスは裏切りを予告します。
 12~16節。11章の最初のエルサレム入城にも似た記事ですが、やはり、主イエスは神の子だからその特別な力で分かっていたと読むことも、前もって約束していたと読むこともできます。17節は、この過越の食事が、主イエスと十二人の弟子たちだということを示します。18節からいよいよ、裏切りの予告です。18~21節。このことについて、今日は三つのことだけを申し上げましょう。まず第一に、ユダが裏切った理由は分かりません。マタイでは、お金のため、ルカでは「サタンが入った」と表現されていますが、マルコでは分かりません。様々な推測(例えばユダは、この世的なメシアを望んでいてそれを明らかにさせるためにやったなど)もありますが、分かりません。第二に、他の弟子たちのことです。心を痛め、代わる代わるに言います(19節)が、そこにあるのは、「もしかすると私が…」という不安(ぺトロの傲慢(29節以下)とは真逆の、しかし同じ弱さがここにあります)です。そして事実この弟子たちは主イエスが逮捕される時には、主イエスを見捨てて逃げてしまいます(50節)。第三に、ユダの救いについて。主イエスは、21節にありますように、大変厳しいことを仰います。しかし主イエスはこのユダのためにも、十字架にかかって死んで下さったのではないでしょうか。教会(私達主イエスの弟子たちの群れ)は、裏切る者も弱さの中にある者も切り捨てることはしません。主イエスが中心となる十二人の中にユダを選んだように。そしてその者のためにも、主イエスは死んで下さったのです。

2018年5月20日「イエスは主」(コリントの信徒への手紙一12章1~11節)

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 今日は講解説教をお休みして、聖霊に関する聖書箇所です。実はこのコリントの信徒への手紙の箇所は、14章まで続きます。しかしその文章の流れ・文脈を丁寧に扱うのは、いつかこのコリントの信徒への手紙を講解説教する時に致しまして、今日は聖霊ということに集中しましょう。4節以下には、聖霊によって与えられる様々な賜物について書かれています。4~11節。聖霊が、様々な賜物を自由に一人一人に分け与えます(だからその賜物を与えられた人の手柄や誇りになるはずはありません)。そして7節。「一人は皆のために、皆は一人のために」というスローガンが流行ったこともありましたが、それと似ています。同じ神がすべてのことをなさいます(6節)。それを教会は具体的に、聖霊によって与えられた賜物を用いて、この世界で実現していきます。
 その時に知っておくべき大切なことが3節にあります。私が出身教会でまだ信徒として教会生活を送っておりました頃、一つの疑問がありました。それは、教会で牧師の口から聖霊について語られることが実に少ないことでした。だからなぜなのか、率直に牧師に尋ねました。その時に示されたのが、この3節後半です。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない。ここにこそ、聖霊について知っておかなければならない要点があります。もしも「イエスは主である」と告白して、教会に連なるならば、その人は(本人の自覚の有無に関係なく)聖霊の働きを受けています。イエスは主であるという告白は、最も基本的で単純な信仰告白です。しかしこの告白にこそ、私達全てのキリスト者の一致・協力の根拠があります。相手もまた自分と同じように聖霊の働きによると信頼できるからです。今日、教会のお誕生日である聖霊降臨日には、聖霊とは何か、聖霊の働きは何か、思い巡らしてみましょう。

2018年5月13日「良いことをしてくれた」(マルコによる福音書14章1~9節)

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 今日の箇所から、受難物語です。まずマルコ福音書記者は、主イエス殺害の計略から描きます。そして次回(再来週)の最初の箇所で、ユダの裏切りの企てがあります。マルコがよく用いるサンドイッチ構造です。ユダヤの宗教権力者たちと主イエスの弟子の一人が共に人間的な「死の企み」を練る中で、たった一人の女性の行為が描かれます。最後、9節。主イエスが仰ったように、二千年の間、この人のしたことは記念として語り伝えられてきました。今日の礼拝もまた、その一つでしょう。ここ、幕張教会では何よりも大切なこととして福音が宣べ伝えられています。だからここでも、この女のしたことは語り伝えられます。
 まず出来事は3節に描かれています。3節。他の福音書と異なり、マルコはこの女が誰であるのか、どんな素性の女であるのか、一切描きません。またなぜこの女がこんなことをしたのか、女の動機も書きません。ただ、事実を淡々と書きます。恐らく男たちだけの食事の席(女性は給仕するのみ)に急に女が入ってきて何かをするだけでも、当時としてかなり変わった目立つ行為です。しかもとても高価なナルドの香油を惜しげもなく主イエスの頭に注ぎかける。周りの人々(福音書によっては、弟子あるいは、イスカリオテのユダ)は憤慨し厳しくとがめます。4・5節。当時の日雇い労働者の一年分の給与に当たる額です。そこからこの女は、身分の高いお金持ちの女性なのだとか、売春婦をしていてお金があったのだなどという推測もありますが、分かりません。
 これに対して主イエスは仰います。6~9節。主イエスは、「良いことをしてくれた」と評価します。これは「美しいこと」という言葉です。この女も含めて(主イエス以外は)誰もまだ、これから起こる十字架の死を知らない中で、埋葬の準備がなされた。私達は、「そこにいた人の何人か」になってしまいがちなのではないでしょうか。そうではなくて、この女のように、「今自分が主イエスのためにできることは何か」を思い行う信仰でありたいものです。