これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年6月28日「罪に定めるもの」(マタイによる福音書12章38~42節)

 前回まで、ベルゼブル論争の主イエスの言葉でした。悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのではない、既にここに神の霊、聖霊が来ているのだ。聖霊を冒涜し、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されない。そして人は、裁きの日に自分の言葉によって裁かれる(罪ある者とされる)とのことでした。
 今日の箇所では、このような主イエスの言葉に対する反論のつもりなのでしょうか。ファリサイ派の人々(に加えて律法学者の人々も)が問います。38節です。しるしというのは、証拠となる奇跡です。これには当時の状況が背景としてありました。それは、当時偽メシアが何人も現れていたことです。そういう意味では、しるしを求めることも無理からぬことでした。しかし主イエスは、しるしを求めてしまうことの意味、罪深さ、よこしまさを指摘されます。39・40節です。ソロモンにまさるものが既にきており(42節)、目の前で神の業がなされているのに、証拠を求めてしまう。そこにあるのは、神と神の子を判断される側におく罪です。私達人間の側が、裁き判断する側になってしまう罪です。神と人間の立場の逆転を起してしまっています。立場が逆なのですから、そもそもしるしを求めること自体が間違いです。ヨナのしるしのほかには与えられません。主イエスは、復活の出来事を預言します。
 そして、主イエスは旧約聖書から二つの例を挙げて、最後の審判の時に罪に定められる者と罪に定める者を語ります。最後、41・42節です。ニネベの人々も、南の国の女王も、神の民イスラエル、ユダヤ人から見れば、異邦人に過ぎません。あえて主イエスはそういう人々を引き合いに出して、最後の裁きの真実を語ります。自分たちは神の民だ、だから救われて当然だと考える人々。この人々は、自分が神を(神か神でないかを)判断するのだと考えています。だからしるしを求めます。そこに罪がはっきりと現れています。しかしニネベの人々は、異邦人でありながら、ヨナを受け入れて悔い改めます。女王ははるばる長い旅をしてソロモンを訪れます。私達は、ファリサイ派の人々のように、「自分たちが正しい」と思い込んで裁くのでしょうか。それとも悔い改めて主イエスに従うのでしょうか。問われています。

2020年6月21日「自分の言葉によって」(マタイによる福音書12章33~37節)

 今日の聖書箇所は、前回の箇所と密接に繋がっています。前回は、ファリサイ派の人々の暴言に対して主イエスが語り始めました。聖霊を冒涜する罪、聖霊に言い逆らう罪だけは赦されることがないと語られました。今日の箇所では、「自分の言葉によって」、最後の審判の時の裁きが決まるのだと語られます。
 まず、木と実の話です。33節です。そして直ちにその意味が語られます。34節です。木が自然にその実をつけるように、人の口から出る言葉は、心にあふれていることが出てきます。嘘や偽り、美辞麗句やお世辞の言葉もあります(取り調べや黙秘の話)けれども、主イエスがここで語っておられるのは、そういうものではありません。自然と出てくる言葉です。(ファリサイ派の人々がベルゼブルの力で…と言ったように)。35節では、善い人が良い言葉を語り、悪い人が悪い言葉を語ります。私達人間は本来、「悪い人間」ですから、悪い言葉しか語ることができません。だから裁きの日には、裁かれるしかありません。最後の、36.37節。
 では私達はどうしたら良いのでしょう。ただ、十字架と復活の出来事にしっかりと立つことです。「自分の言葉によって罪ある者とされる」ほかない私達です。しかしただ、主イエスの十字架による罪の赦しを受け入れて、今共に生きていて下さる復活の主と共に、「今既に」永遠の命を生きるとき、私達の言葉は変わります。ただむなしく消えていく(あるいは悪い結果しか残さない)言葉は消えます。人を力づけ、生き生きと生きる命へと招く「力ある言葉」を語る者とされます。主イエス・キリストの反映として。

2020年6月14日「赦されない罪」(マタイによる福音書12章22~32節)

  •  新しい単元に入って三回目です。今日の箇所ではまず主イエスが、一つのいやしをなさいます。それに対する群衆の反応は、23節です。とても素直な反応です。しかしファリサイ派の人々の反応は全く異なります。24節です。よりによって、悪霊の頭ベルゼブルの力によるといいます。
  •  これに対して、25節以下は、主イエスの言葉です。今日は三つの事柄だけ集中し、更に最後に(説教題にも致しました)「許されない罪」に注目しましょう。まず一つ目に、主イエスは彼らの主張を否定します(29節まで)。彼らのいう通りだとすると、内輪もめであって、それはありえません。第二に(その中で言われていることですが)「神の国はあなたがたのところにきている」(28節)という言明です。第三に、30節です。こと、キリスト・救いに関しては、中立はありません。必ず、味方する(味方してキリストと共に働く)か、散らす(敵対して妨害する)かのどちらかです。
  •  最後に、許されない罪について。31・32節です。これは実に大胆で決定的な言葉です。コリントの信徒への手紙一(現在聖書に親しみ祈る会で丁寧に読んでいます)には、悪徳表が出てきます。興味深いことに、段々に取り上げられる悪徳が増えていきます。しかしながら、6章11節です。確かに主イエスの十字架の大きさの前に、全ての罪は赦されるのも事実でしょう。ではなぜ、聖霊に言い逆らう者だけは、赦されることがないのでしょうか。それは、赦し・救いに必要なたった一つのこと、主イエスの十字架による赦しを受け入れることを不可能にしてしまうからです。ファリサイ派の人々は、今日の聖書箇所で、聖霊に言い逆らう罪を犯しているようにみえます。しかし悔い改めて、福音を信じるならば(そうすることができるならば)、聖霊に言い逆らう罪ではないのです。

2020年6月7日「殺害の計画と救いの実現」(マタイによる福音書12章9~21節)

 先週から新しい単元に入りました。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の箇所では、ファリサイ派の人々の目の前で、会堂で安息日規定を破ります。前回の出来事と恐らく同じ日、主イエスは会堂に入られます。安息日です。そこで、問われます。9・10節です。「訴えようと思って」とあります。純粋な質問ではありません。主イエスが普段から安息日にもいやしておられるのは知られていたのでしょう。主イエスは答えます、11・12節です。この羊が穴に落ちる例は、実際に当時議論されていたようです。またほぼ確定した答えもありました。すぐに助けなければ死んでしまうような場合は助けてもよい、しかし安息日が終るまで大丈夫なようならば、餌を与えるなどして待つべきだ、というのです。前回のダビデの場合同様、ここでも主イエスは、例外的な事柄を引き合いに出して、原理原則を批判します。これは本来間違ったことで、私達もしてしまうことがあります。従ってここでは、主イエスはファリサイ派の人々の議論の土俵に乗ることを拒否したといえるでしょう。

   そしていやします。13節です。これは、(ファリサイ派の人々の立場に立てば)明らかに違反です、安息日が終ってからいやせばよいのですから。しかしあえて、主イエスは挑戦するように、いやされます。なぜでしょうか。それは、安息日の本来の意味(仕事をしないで、ひたすらに神・神の言葉に集中すること)を考えた時に、今いやすべきだということです。この片手の萎えた人も共に、心の底から喜んで安息日を守ります。「共に」を大切にされる主イエスです。そしてそれは、自分の命をかけたものでした。14節で、ファリサイ派の人々は、相談します。

   それに対して主イエスは、さらなる挑発をするのではありません。ただ立ち去られ、必要ないやしをなさいます。15・16節です。そしてこの出来事に、マタイ福音書記者は、イザヤ書42章の実現をみます。傷ついた葦を折らない正義がここに実現しています。

2020年5月31日「安息日の主」(マタイによる福音書12章1~8節)

 今日から新しい単元に入ります。ファリサイ派の人々と主イエスとの対立が高まっていきます。今日の出来事の発端は、弟子たちが麦の穂を摘んで食べることです。その行為そのものは何の問題もありません。かつてはこの国もそうでしたし、律法にきちんと書かれています。人の畑を狩り入れしてはならない(それは泥棒です)けれども、麦の穂を摘んで食べることは許されていました。1・2節です。問題は、「安息日にしてはならないことをしている」ことです。当時安息日規定・律法は、とても厳格に考えられていました。その結果、ファリサイ派のような人々も、地の民と呼ばれ差別される人々もおりました。麦の穂を摘む位よいだろうと私達は考えますが、ファリサイ派の人々はそれも労働であって、安息日にしてはならないと考えます。安息日規定をその根本的な考え方を大切にしつつ、自由に生きるのではなくて、細かく内容を定めていきます。その結果、差別や蔑視が生まれてきます。本来安息日は、人間が人間らしく生きることができるように、神の安息にならって、しっかりと休んで神を思うためにあります。しかしそれが全く別のものになってしまいます。ここで主イエスが挙げている二つの例(ダビデと祭司)は、様々な反論ができます。大切なのは、その後の記述です。
 まず6節です。私達は神殿よりも主イエスが偉大であることを知っています。しかしファリサイ派の人々からみれば、何とも傲慢な物言いでしょう。しかし主イエスが仰ったことの意味は、8節です。私達も安息日を大切にしますが、それは安息日の主であるイエス・キリストがおられるからです。主イエスこそ、安息日の規定さえも安息のためではなくて、差別や偏見のために用いてしまう私達の罪を赦して、安息をくださいます。神がいけにえではなくて、憐れみを求めるというとき、それはいけにえはどうでもよいということでありません。いけにえにも勝って、憐れみに生きる、それは主の安息に支えられているからできることです。

2020年5月24日「私の軛(くびき)は」(マタイによる福音書11章25~30節)

 今日の聖書箇所は、「そのとき」とはじまっています。前回見た、町々を叱った、主イエスが「ウーアイ」と嘆かれたときです。まず前半、25~27節をみましょう。まずここで私達のフツウの感覚で不思議なのは、主イエスが父なる神をほめたたえていることではないでしょうか。呪いの言葉や恨み節の方がこの箇所には相応しいでしょう。しかし主イエスは、父なる神をほめたたえます。その理由は、「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ったからであり、それが「御心に適うこと」だからです。主イエスの奇跡の業に触れた全ての者が悔い改めるのではありません。「幼子のような者」、ただ主イエスが「示そうと思う」者だけが、父なる神を知ります。それは、この世界に広がっているような差別・選別とは全く異なるものです。神の選びです。どんな立場の方であっても、主イエスと出会うときに、私達は、自分が幼子に過ぎないことに気が付かされます。そのように、自分の力では「神を知る」ことにたどり着けないのだと分かる者だけが、悔い改めて信仰に生きます。
 更に主イエスは、人々を招きます。28節です。この言葉はよく、教会の案内甲板などに書かれています。[ある老牧師の話]。28節だけを読んで、29・30節を無視することは、申し上げるまでもなく、正しい読み方ではありません。主イエスの招きは、何もしないでただ安らぐ所への招きではありません。主イエスの軽い軛を負い、主イエスに学び続ける時に与えられる安らぎです。[神の国のイメージについて]。私達は、本来負わなくてよい重荷を下ろして、十字架の贖いによって、その柔和と謙遜を示して下さった主イエスに従う歩みによって、どんな状況でも安らかに生きましょう。

2020年5月17日「悔い改めない町々を」(マタイによる福音書11章20~24節)

 前回、洗礼者ヨハネを巡ってのお話しが終りました。そして、今日の箇所は、12章からの、イスラエル当局と主イエスとの対立が激しくなっていく箇所の先触れです。主イエスの多くの奇跡にもかかわらず、悔い改めない町々への叱責の言葉です。これは前回の「今の時代」に対する主イエスの批判の言葉に繋がっています。福音書の中で最も厳しい主イエスの言葉の一つです。だからこそ、私達はこの箇所をないがしろにするわけにはいきません。
 まず、20節です。私達はここで、三つのことに注目しましょう。まず第一に、奇跡は直ちに悔い改め・信仰を呼び起こし・呼び覚ますものではありません。奇跡が呼び覚ますのは、驚きです。そして驚きは疑問をうみます。それが悔い改めに繋がるとは限りません。第二に、悔い改めとは何か。そして第三に、私達の場合は、どうなのかということです。たかだか数年(しかも十字架と復活以前に)主イエスが活動なされた町々と、その後、主イエスが共にいてくださった二千年の歩みをなす私達とどちらが(悔い改めないとしたら)罪が大きいでしょう。
 21~24節は、まとめてみてみましょう。ここでも三つのことだけをみきおきます。まず第一に、主イエスの語られる「不幸だ」ということばについて。これは、もとのギリシャ語で、「ウーアイ」という言葉です。嘆きの呻きの言葉であって、上から目線の裁きなどではありません。次に主イエスが活動拠点となさったカファルナウムの町の奢りについて。活動拠点になさっていたからの奢りだとか、商業などの中心地であった奢りだとか、様々な推測がなされます。本当の所は分かりません。ただ、他の町々と同じく、「悔い改めなかった」ことが何よりも問題です。そして第三に(最後に)この主イエスの言葉で終っているとしたら、ひたすらに厳しい裁きの言葉だけになってしまいます。実際には、次回の、神を崇める言葉と大いなる招きの言葉に繋がっていきます。このように、悔い改めない町々・私達であるからこそ、主イエスは十字架に死ななければなりませんでした。そしてこの主イエスの十字架によってようやく私達は悔い改めます。