これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年5月17日「悔い改めない町々を」(マタイによる福音書11章20~24節)

 前回、洗礼者ヨハネを巡ってのお話しが終りました。そして、今日の箇所は、12章からの、イスラエル当局と主イエスとの対立が激しくなっていく箇所の先触れです。主イエスの多くの奇跡にもかかわらず、悔い改めない町々への叱責の言葉です。これは前回の「今の時代」に対する主イエスの批判の言葉に繋がっています。福音書の中で最も厳しい主イエスの言葉の一つです。だからこそ、私達はこの箇所をないがしろにするわけにはいきません。
 まず、20節です。私達はここで、三つのことに注目しましょう。まず第一に、奇跡は直ちに悔い改め・信仰を呼び起こし・呼び覚ますものではありません。奇跡が呼び覚ますのは、驚きです。そして驚きは疑問をうみます。それが悔い改めに繋がるとは限りません。第二に、悔い改めとは何か。そして第三に、私達の場合は、どうなのかということです。たかだか数年(しかも十字架と復活以前に)主イエスが活動なされた町々と、その後、主イエスが共にいてくださった二千年の歩みをなす私達とどちらが(悔い改めないとしたら)罪が大きいでしょう。
 21~24節は、まとめてみてみましょう。ここでも三つのことだけをみきおきます。まず第一に、主イエスの語られる「不幸だ」ということばについて。これは、もとのギリシャ語で、「ウーアイ」という言葉です。嘆きの呻きの言葉であって、上から目線の裁きなどではありません。次に主イエスが活動拠点となさったカファルナウムの町の奢りについて。活動拠点になさっていたからの奢りだとか、商業などの中心地であった奢りだとか、様々な推測がなされます。本当の所は分かりません。ただ、他の町々と同じく、「悔い改めなかった」ことが何よりも問題です。そして第三に(最後に)この主イエスの言葉で終っているとしたら、ひたすらに厳しい裁きの言葉だけになってしまいます。実際には、次回の、神を崇める言葉と大いなる招きの言葉に繋がっていきます。このように、悔い改めない町々・私達であるからこそ、主イエスは十字架に死ななければなりませんでした。そしてこの主イエスの十字架によってようやく私達は悔い改めます。